魔斬
第7話 安政奇譚⑦
その日、山田浅右衛門は一日の仕置を済ませると、奉行所を出で、その足で山谷堀へと赴いた。理由はどうあれ浅草弾左衛門預かりの手の者を死なせた。これは不始末であり、手落ちだった。その不手際を詫びて、それに見合う罰に服す。魔斬の仕事に携わる者の、それが仁義であった。
しかし、山谷堀長吏街は門を閉ざして何物の侵入さえ阻んでいた。
「おい、山田浅右衛門じゃ。弾左衛門のお頭に逢いたい。門を開けてくれ」
門に向かって叫んだ。
ややあって、門の向こう側から返事があった。
「お頭は顔を見たくないそうな」
「おい?」
「お頭の仰せは変わらぬ」
浅右衛門は溜息吐いた。
(無理もない。死ななくともよい生命が奪われたのだ)
ここはおとなしく出直してきた方がよいかも知れぬ。そう思い、浅右衛門は足取り重く、帰途に就いた。いつもは途中で寄り道をするのだが、今日はそんな気分にもない。何やら酒も不味そうに思えて、どうにも暖簾を潜る気にもなれなかったのだ。
薄暮の頃は逢魔ヶ刻である。
この世とあの世の交錯する、魔性の刻限だった。
新寺町通りを早足で歩き、下谷から神田を目指した。人影は疎らで、町並みを抜けると神田川の畔に出る。此処いらで、見事な夕焼けに包まれた。
そのときである。
ふと、浅右衛門は殺気を覚えた。
瞬間、傍らの杉並木に潜んでいた男が
「天誅!」
その切っ先を躱すと、反射的に、浅右衛門は備前長光を抜刀し、その男を袈裟掛けに斬った。斬ってしまってから、手加減をしなかった自分に
(……しまった!)
と、心の内で舌打ちした。
慌ててその者を起こし
「何者か?俺を山田浅右衛門と知っての事か」
と正した。
浪人風の男は、ただ一言
「橋本先生を……よくも」
そう云い残して、息絶えた。恐らく浪人は、山田浅右衛門が仕置した福井藩士・橋本左内の弟子なのだろう。攘夷論者を返り討ちにしたというのなら、別段、浅右衛門は罪を問われる事はない。
しかし……。
(厭な世の中じゃ)
浪人の骸を杉並木の袂に除けると、浅右衛門は近くの番屋へ出頭し、一連の報告をした。番屋に詰め同心がいたので、すぐさま現場へ駆け付けた。同心は遺体を検分したが
「斬らねば、間違いなく斬られていた。浅右衛門殿には、落ち度はござるまい。今日はこのまま御引取りくだされ。明日、奉行所で話を聞きましょう」
初老の人懐こい顔の同心は、小者を動員して死体を詰所へ運ばせた。その様子を伺いながら、浅右衛門は溜息吐いて、背中を丸めた格好で家路を急いだ。
平河町の屋敷に着く頃には、陽はとっくに暮れていた。肌寒い風が、浅右衛門の憂欝を一層掻き立てる。
と、屋敷の前に誰か立っていた。助六である。
「……さすが、鮮やかな手ですな」
「何のことだよ?」
「さっきの手際でさ」
「見ていたのか?」
「たまたま、偶然でさぁ。それにしても、あの浪人は誰なんで?」
「知らねえよ。とんだ迷惑だぜ。それよりもお前ぇ、何しに来たんだ」
「そいつぁ、ご挨拶だ」
助六は浅草弾左衛門の使いだという。
「旦那の魔斬の邪魔をしたって、お頭にこっぴどく叱られちまいました。旦那、どうかこのとおり、勘弁してやってくれませんか」
浅右衛門は吹き出した。笑いながら助六の背を叩き、土間へと誘った。
助六は水戸藩の使いが来たことを告げた。魔斬りのあと、水戸藩のさる御方はすっかり本復したのだという。
「なあ、助六」
「へえ」
「……本当に、婆の方だったのか?」
浅右衛門は呟いた。
「婆は不義密通の嫁の呪いで生人形に封じ込められていた。不義密通とは申せ、嫁にとっては恋路を邪魔されたのだから、さぞや怨んだことだろう」
「はあ」
「嫁の不義密通の相手ってなぁ、本当は水戸の偉い御方じゃねえかい。ええ?」
「さあ……そこまでは」
「女の恨みは色恋沙汰ひとつで、とてつもない怨霊にもなっちまう。御偉方の火遊びも、ほどほどにして貰いたいよな」
「ははは……あっそうだ。旦那、これ」
「仕事料か?」
「ええ」
手渡される布佐包からは、ずしりと重みが伝わってくる。
「ちと、多過ぎやしねえかい」
包みを開くと、五十両が入っていた。
「弾左衛門のお頭は、どうやら水戸藩に相当ふっかけなすったようだねえ」
浅右衛門は渋い顔をした。
「侍の金なんぞ、ろくなことに使われやしねえって、そうお頭が申されておりました」
「しかし、五十両は多いな。物には相場ってもんがあるだろうよ。こりゃあ、法外だぜ」
「多くねぇですよ。こちとら死人が出ているんだ。侍からふんだくるのに、手加減はいらねぇと、お頭が」
成程、弾左衛門がそれでいいなら、浅右衛門には文句はない。
「よし、助六よ。お頭に薬を持っていきな」
「薬って、あの?」
「そう厭な顔をするなよ。人の肝は、万病に効くんだぜ。それにこの仕事料は、やはり多すぎるしな、お頭にはこんな形で返さねぇとよ。ここで待ってろ、すぐ蔵から取ってくらあ。それとも、お前ぇ、手伝うか」
「滅相もねぇ。あんな首なし死体を集めた蔵なんぞ、まっぴら御免でさあ」
助六は蒼い顔で頭を振った。
苦笑を零すと、浅右衛門は仏壇の前に座して、線香を手向けた。仕置された人の肝が、こうして生きた人の役に立つのである。ついでに今日仕置してきた人数と同じ数の線香も手向けた。
(迷わず成仏してくれ)
浅右衛門は瞑黙した。