明治洋上セクハラ模擬裁判
明治四年(1871)一一月一二日、太平洋会社外輸船アメリカ号は午後の陽光のなか横浜港を抜錨した。これが〈岩倉遣欧使節団〉の船出である。岩倉具視をはじめ大久保利通・木戸孝允といった、日本の舵取りすべき人物が大量に長期遊説することなど、通常では考えられない。それでも呉越同舟な新政府は海外に手本を求める必要があった。
よかれ悪かれ、必要かつ必然な使節団として、彼らは日本を発った。
最初の寄港先であるサンフランシスコ到着は一二月六日、日付変更線を跨ぐ二五日の船旅となる。
この船には五人の女子留学生がいた。
上田悌(当時一六歳)・吉益亮(当時一五歳)・山川捨松(当時一二歳)・永井繁(当時九歳)・津田梅(当時八歳)。彼女たちは全員旧幕派の娘たち、女子留学の正否検証するための人身御供と考えてよい。
彼女たちのアメリカ渡航は〈岩倉遣欧使節団〉と行動をともにする。
その短い道中で、ひとつの事件が起きた。
船上、女子たちには、あるルールがあった。用便は必ず二人組。一人が用を済ますまでの間はもう一人がその袴を持つ、というものだ。女性の特定が定かでないが、このとき、二等書記官・長野桂次郎がたわむれたという〈事件〉が発生した。何をどうたわむれたかも定かでないが、女性側が不愉快を覚え、そのことを訴えた。聞いたのが大久保利通だったためだろうか、これが大きな騒ぎに発展した。大久保にしてみれば、新政府の重要な事業の門出からこのような騒ぎが生じたことは、極めて下品で堪え難い。捨て置けば、彼女たちがアメリカ社会で露呈したときに日本が笑われる。
大久保は思慮のうえで伊藤博文に善処を委ね、一等書記官・福地源一郎の主唱に応じた模擬裁判を船上で開廷した。伊藤は海外事情を弁え、かつ社交性に通じており、彼女たちとも親しく言葉を交わせる数少ない政府高官だった。模擬裁判という手法はひとつの例題のようなもので、これから世界を知る多くの使節団一行に示すパフォーマンスだった。いや、単に暇つぶしだったかも知れない。
司法大輔・佐々木高行は、開明的で人当たりのいい伊藤博文の新しいもの好きな行動力を嫌っていた。ゆえに模擬裁判の開廷に猛反対した。
罪人を浮き彫りにすることは、加害者被害者ともに恥辱である。
使節団自体の恥でもある。
しかし欧米ではこういう裁判が多々ある。伊藤博文の主張が通った。
この模擬裁判の裁判長を務めたのは伊藤博文、裁判官は理事官・山田顕義、検事役は福地源一郎であり、弁護人は安藤太郎が務めた。これは模擬裁判であり、犯人弾劾の手段ではなく、あくまでもパフォーマンスだ。ひとつの凡例として、欧米人が対処する内政手法を再現しただけに過ぎない。
明治なりたての日本人にとって、それだけでも新鮮だった。
犯人の罪状を明るみにすることより、正統に論じてくれただけで、女子留学生側の気持は単純に晴れたのではありますまいか。そう勝手に論じるところが、当方のなかの〈男〉の贔屓目だとしたら、浅ましいところかも知れない。この題材をもとに作家・古川薫氏は「異聞岩倉使節団(新潮社・刊)」なる作品を描いているので、興味のある方は御本を手に取れたらと思う。
それにしても明治の人とその時代は、保守一徹な者と同様に新しい試みを柔軟に吸収する意欲に満ち溢れている。これは日本人としての教育姿勢の柱ではあるまいか。与えられる教育が現代の常識なら、明治のそれは必然の知恵を修得するための学問。いまの学生さんは与えられた設問を解くことを第一という学習をしている。生涯学習というように、人は労働の環境に応じ常に知識と技の習得を重ねている。ゴールはない。生かしてなんぼの学問、明治の先達からその気概の〈万分の一〉でも、現代人は感じ取って欲しい。
この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。