異形者たちの天下第2話-5
第2話-5 葦の原から見える世界
慶長一八年という多難な年がもうすぐ暮れる。その矢先の、師走二〇日。庄司甚右衛門は再び麹町御門に服部半蔵を訊ねた。
服部半蔵はこの頃実に多忙であった。八王子千人同心の統括が正式に幕府から沙汰され、戸惑う倅・服部半蔵正就を叱咤しつつ、委細の手配りが急かれた。組織の旗頭としては申し分ないが、この倅は機転についてはどこか欠けている。諸事手配りが疎かでならない。だからこそ、老婆心ながら助力することになる。
「すべては徳川の為だ。倅の為ではないよ」
そう嘯く半蔵に、庄司甚右衛門は声を押し殺した笑いを零しながら
(親馬鹿にも程がある)
と腹の底で笑っていた。
徳川の家中、特に三河者は、やはりどこかで肥臭い甘さを隠せないのだ。服部半蔵は主働きの忍ノ者は堕落すると云っていたが、まさしくそのとおりだ。半蔵自身が堕落している。だから目も耳も鈍っているのだ。野生に置かれている庄司甚右衛門の目には、それがハッキリと判る。
(これが風魔と渡り合った忍軍のなれの果てとは)
少し悲しくもあった。
「服部一族はこの先どうするつもりかね」
そんな謎かけをしてみた。
半蔵は首を傾げた。徳川のために尽くすまでと、生真面目に過ぎた回答も予想通りだ。だからこれ以上、このことに触れるつもりはない。
ただ約束という義理だけは果たすつもりだった。
「稲荷の件、な」
「おう」
「本当に家康が奨励してるのか」
「そうだ」
到底考え難いと、庄司甚右衛門は頭を振った。尋常ではないとさえ吐き捨てた。その有様に半蔵も困惑した。どういうことなのか、と。
「稲荷とは荼吉尼天の御使だぞ。どういうつもりなのだ、家康は外法にでも傾いたというのか」
服部半蔵は声を詰らせた。
答えに窮したのではない。戦慄に我を失ったのだ。そうか、畏れていた事態が、いよいよ現実のものとなってしまったのだ。荼吉尼天との復縁はいつから始まったのか、それさえも気付かなかったのは、偏に老いた半蔵の落ち度なのだ。
(石見の一件が引金なのか……それよりも以前なのか……導師のような輩は身近にいるのか)
半蔵は頭の中が目まぐるしく回転するのを覚えた。
頭の中は、真っ白になって……もう何が何だか判らない。
「おい!」
庄司甚右衛門に揺すられて、半蔵は覚醒した。その動転している様に、事の重大さを確信した庄司甚右衛門は
「このことからは風魔は退くよ。徳川の事情だろう?」
服部半蔵は答えない。今度は返事に窮したのだ。
「とにかく風魔衆を危ない橋に立たせる訳にも渡らせる事も出来ぬ。あとは服部の一族でやってくれよ。頼むぞ、なっおい」
ようやく曇った声で
「ああ」
服部半蔵は事態を冷静に考えるまで、あと二刻は要した。その間に庄司甚右衛門は姿を消していた。御門の闇のなかで佇みながら、服部半蔵は答えを見つけあぐねるのであった。
気がついたら、服部半蔵は柳橋の遊女屋の前にいた。
遊女たちは客が来たとはしゃいだが、用向きが庄司甚右衛門にあると知った途端、態度を一変させて邪険に扱い始めた。手代風の若衆が遊女屋の勝手口から半蔵を手招きした。
(この者も……!)
風魔の手練れであることは、半蔵の第六感が察知した。遊女屋そのものが風魔一族の根城であることを、このとき初めて理解した。
「もう手を退いた筈なんだがね」
こざっぱりしたその部屋は、遊女屋の経営に用いる事務所のようなものだろう。その真ん中で、帳簿をめくる手を止める事もなく、庄司甚右衛門は涼しげに呟いた。
服部半蔵はふわりと座った。
今さら風魔一族に危険な橋を渡って貰うつもりなどなかった。ただ己の心を整理するためにも
「これから独り言をいうでのん。黙って聞いて貰いたい」
別にどうして欲しいという訳ではなく、心の奥底に燻るモノを吐き出す受け皿が欲しかった。庄司甚右衛門は味方と言い切れないが、少なくとも敵ではない。だから聞いて欲しかった。
「思えばすべては三河から始まったのかも知れぬ」
そう切り出した半蔵を、庄司甚右衛門は制した。
「この部屋に誰も近づけぬよう、用向きはそなたが一切取次ぎせよ」
と、手代に申しつけると、開け放たれている障子一切を締め切り、庄司甚右衛門は再び帳簿をめくり始めた。
(有難い)
どうやら服部半蔵の言葉に耳だけは傾けてくれるというのだ。
先ず半蔵は、家康が荼吉尼天信仰に走った信長との因縁、あの忌まわしい過去の経緯を語り明かした。公然と敵視出来ずにむざむざ正室と嫡男を殺すことになったあの事件の真相を。
「しかし、すべてはそれが始まりではなかった」
そう、今にして思えば、半蔵には多くの心当たりがあった。家康が今川家の人質時代から、荼吉尼信仰の兆候を匂わせていたということを……。
「……あれはまだ大御所が竹千代と呼ばれていた頃じゃった。儂はまだ服部の家督も相続していなかった。大御所は今川家へ連れて行かれのう。従う家臣もほんの僅か、しかもそのなかには痴れ者がおり、手土産代わりに尾張へと浚われた。そこで有耶無耶のうちに過ごされ、人質交換で今川へ引渡されて長じられた。しかし、その頃の大御所は、面変わりを為され考え方も変わっていた。何事にも内に陰に考えるようになられた」
服部半蔵は彼の父・半蔵保長の代から松平家の禄を食んでいると豪語するが、現実的には違う。家康の祖父・松平清康に仕官したのは間違いないが、その頃の松平家は三河の一土豪に過ぎず、ろくに家臣を養える状況ではない。だから家康にべったりという訳ではなかった筈だ。史伝によれば半蔵は保長の五男だが、兄を差置き服部一族の棟梁となった。弘治三年(一五五七)、十五歳で家康に従い初陣を飾ったとされるが、その年はまだ家康も今川の人質時代。華々しい功績があろう筈もない。察するに、服部一族は今川家の末席に据え置かれて、松平家が独立するまで家康と別行動を取っていたのだ。すべてを己で見届けたのではないから、その頃の経過はすべて人伝てに過ぎない。
だから、家康の信仰についてまで気が回らなかった。今日まで考えもしなかったし、気付きもしなかった。
「大御所は神仏に深く帰依しながら今川の支配下で忍従された。その頃によく祈願された社があり、今も帰依されていると推察される……その社は、豊川の……」
庄司甚右衛門は手を止めた。
「まことか?」
ただ聞くというだけの態度を忘れて、思わず反問した。
「豊川の祠は荼吉尼を祭神に掲げる最大規模の寺社ぞ」
半蔵は否定しない。
「ならば、結縁騒動はほんの一幕に過ぎぬわ。既に家康は荼吉尼天の掌に転がされて現在を保っている。救いようはねえな」
「救えない……?」
「考えてもみろよ。この世の片隅にいただけの男が、生涯を掛けて山のような危機困難を嘘のように切り開いて、まんまとここまで辿り着くのは異常な才だろ?そう、尋常ではない。神懸かりとはこのことだ」
「ならば……大御所は」
「手遅れだよ。家康は天下を取る。この世の栄華をすべて握り締めて、そして死したあとは無間の闇の中に落ちていく」
なんということだろう。
家康自身はもはや荼吉尼天に魂を売り渡している。取り返すことは不可能なのだ。信長に背こうとしたあの一件を阻止したところで、すべての流れは変えられなかったのである。
服部半蔵は家康に生涯を捧げてきた。
そのために死人となって老骨を奮ってきた。
(それが、こんな結果の為だとは……)
不思議と泪は出なかった。
本当に窮したとき、男は大泣きして頭を切り替えることなど出来はしないもの。むしろ無念の慚愧が燻り蘇り、実の始末の悪い女々しさに陥る。ましてや半蔵にとっては、これまでの人生が否定されたように感じられて
(何もかもが)
虚しくさえなっていた。いっそ死んでしまえばどれほど幸せか。何もかも忘れるために、生さえも放り出してしまいたかった。
「でもさ、家康が死んだらどうなるかな」
庄司甚右衛門は呟いた。
「この天下は家康一代限りかな。そうしたら、豊臣が息を吹き返す。やはり江戸のことは束の間の幻影になるのかね」
「そんなこと……!」
半蔵は激昂した。
徳川の天下は徳川のものだ。戦国を駆け抜けて徳川に捧げた人生が、そこまで地に落ちては余りにも無念極まりない。
「徳川は征夷大将軍だ。江戸に幕府がある限り、天下は泰平になる。戦乱の惨劇はもうおしまいにせねばなんね。でなくば、儂の生涯は余りにも惨めだ……惨め……惨め過ぎるではないか……!」
「ならば稲荷を奨励するかね」
「稲荷を?」
「風魔の調べでは稲荷とは表向きの口実。家康は荼吉尼天を江戸中に祀り、その恩恵で市中を鎮守させるつもりだろうな。もっとも余人は稲荷を祀って商売繁盛を願うだけだがね」
服部半蔵は躊躇わなかった。
家康が救えぬなら、次の代の徳川を生かすまでのこと。徳川が江戸に幕府を開く限りは天下泰平である、そのために余生を使わねば
「これまでの生き様が無駄になってしまうわ」
半蔵の決意は修羅の如くである。
庄司甚右衛門はもう何もいわなかった。風魔はそんな修羅の道をとうに捨てた。そんな半蔵の姿は羨ましくもあり、且つ哀れでもあると、ただただ心の底で呟くだけであった。
こののち江戸に稲荷が多く祀られた。その総本山として王子に大々的な稲荷社を設け、そこを徳川家の祈願所と定めたのである。この仕儀に将軍秀忠も幕閣も真意は見抜けずにいた。服部半蔵ただ一人が真実の重さを胸の奥に抱きしめていた。
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