瀬せをはやみ 岩いはにせかるる 滝川たきがはの われても末すゑに あはむとぞ思おもふ
お題は「小倉百人一首」の好きな方ならご存じの歌。
保元平治の歴史に敏い方なら、詠み手も御存じ。
崇徳上皇。
日本の御霊怨霊としては「菅原道真」「平将門」に匹敵する平安末期の、トップクラスの存在。戊辰戦争の折には孝明天皇が京都にお迎えしようと尽力し、このあとを明治新政府が引き継ぎ、敬いたてまつり恐れを抱いた。国家のひとつも転覆させる力を秘める怨霊を鎮める術など誰もしらない。
しらない現代人は、しらないからこその不敬をやらかしている。いつかその怒りに触れることもあるだろう。
ここでは怨霊譚をかたらない。
このお題の歌は、岩にぶつかり二手に分かれながらも、また一つの流れに戻る川の水の様子に、離ればなれになってしまった恋人と自分との状況を重ね合わせた意を含む歌。
精神的な「道を違えたものの他意はない赤心」を表現する崇高な歌です。
おもしろい解釈もありますけど・・・
基本的には読んで字の如くの解釈ゆえに、「小倉百人一首」にも登用されています。
崇徳上皇は身の上が決して幸福ではありません。
骨肉という、親子兄弟の幸に薄い、同情を禁じ得ぬ家庭環境にありました。
この赤いマーキングが、上から順番に皇位継承とされたもの。一見すると、不可思議が微塵もない。しかし、ここに真偽のほどは定かならざるものが投下される。
『古事談』曰く。
崇徳上皇は鳥羽天皇の子とされているが、実は母・璋子が、曾祖父の白河法皇と密通して産まれた子であるとしている。白河法皇は極めて異常性欲者といってよいほど、奔放な女性関係と併せて男色も好んだ。側近に仕える多数の女官・女房ら下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えた。平清盛が白河法皇御落胤と囁かれたのも、このことが起因する。
政治的権限を掌握した白河法皇の表向きのことを指して「43年間にわたり院政を敷き天皇の王権を超越した政治権力を行使した〈治天の君〉なり」と後世称される。
寵愛した中宮・藤原賢子の子・堀河天皇を即位させ〈院政〉のはしりと為した。堀河天皇が若くして崩御され、孫の鳥羽天皇を即位させると、権力は絶対のものとなる。院政は天皇よりも絶対権力を持ち、正直、鳥羽天皇は面白くない。強引に鳥羽皇子の崇徳天皇へ皇位を譲らせたのも白河法皇だ。
崇徳への白河院の寵愛ぶりは異常に映り、性癖もあることから
「璋子様が院と密通して生まれた子」
と指摘されるのも無理らしからぬこととなる。父である鳥羽上皇は崇徳天皇のことを
「叔父子」
と呼んで忌み嫌っていた。ただしこの逸話は崇徳天皇誕生後100年以上後に作られた『古事談』のみにある記述であり、真偽は明るく出来ぬ事情か、根も葉もないことか、委細は不明である。
このような理由から鳥羽天皇は崇徳院を実子とみなさず、父と子の心の交流はない。
白河法皇の崩御を機に、崇徳天皇は冷遇されていく。
天皇家をめぐる皇位継承の諍いと、源氏や平氏や藤原貴族の跡目の骨肉が同時期に噴き出して、それぞれが手を握り敵対して、奇しくも対立構造が二分化していく。
この絶倫法皇の奔放な性癖が、平家台頭や武家社会の存立という歴史の転換期に結び付いていくのは紛れもない事実だろう。その渦中に巻き込まれた崇徳上皇は、純粋な時代の被害者といってよい。
その最期が非業であればある程、天皇家は御霊という存在を生み出す。
神にもなれば鬼以上の天魔にもなる、それが天皇家だ。
日本史上、最恐とうたわれた怨霊は、かく誕生する。
しかし、思う。
このような純粋なる和歌を詠む上皇が、生来の御霊となる資質をお持ちか、とも。
離れ離れになった恋人との再会を誓った歌という説。
権力を失った崇徳院がいずれ復権してみせることを誓った歌だという説。
崇徳上皇の御心は深い深い水底にあり凡徒のあずかり知らぬ高みにもあり、断じて窺い知れぬ。聞くなかれ、というところだ。
江戸市井や武家の心を描く笹目いく子先生の既刊作品の番外編。
結びに用いられる御歌。
崇徳上皇をなにに例えてのことか、深掘りすると、番外編は一気に本編へ匹敵する濃密さを増していく。
冴えたる筆力に脱帽する。