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異形者たちの天下第1話-2

第1話-2 南蛮渡りの悪魔

 駿府城下の屋敷に籠もったまま、一向に動きがない大久保長安に
(妙な)
と、本多正純は胸騒ぎを覚えていた。
 八王子の代官所からは頻繁に事務手続きの使者が往来している様子だが、対応するのは長安ではない。果たして屋敷に籠もり
(何を企んでいるのやら)
 長安が屋敷に籠もって間もなく、家康の様子が一変した。高熱に魘されたかと思ったら、俄に手足を凍らせて、煮える風呂にも入れた。そのうえ、時折思い出したかのように、激しく女を欲しがり吼える。
「奥には女中は無用。取次ぎは当方の手の者が仕切る」
 そう厳命し、本多正純は家康病床の箝口令を徹底させた。
 それにしても、異常だ。長安の屋敷籠もりと引替えの病的進展、これにはきっと裏があるに違いない。本多正純は秘かに探りを入れるべく、服部正就を招き寄せた。
「石見の正体を暴け。場合によれば殺しても構わん。責任はこの上野介が一切負ってやろうず」
 服部正就は八王子から父・半蔵を呼び寄せ、このことを報せた。
 服部半蔵は胸騒ぎを覚えた。
「腕利きの者を差し向けよ。石見は殺す。その覚悟で赴くべし」
と断じ、首尾を待つことにした。
 服部正就は熟練の配下を五人選抜し、長安の動向と正体を暴いたうえで
「殺せ」
と命じた。
 五人のなかでも年の若い忍・名張の佑吉は、ここ数年の影働きのなかで、最も修羅場を潜り、数多くの暗殺を手掛けている。彼らは単独でも十分に影働きがこなせる実力を備えていたし、そんな手練を五人も集めたところに、服部正就の並々ならぬ意気込みが感じられた。だから彼らもまた、的争いの足引き合いを捨て、見事に遂行してみせようと、この任務を重視していた。
 大久保長安の屋敷は無防備に見えて、実は潜入者への備えが神経質な程に徹底していた。彼らは先ず、屋敷への潜入に苦慮をした。やっとのことで潜入したものの、今度はあることに気がついた。屋敷内には異常な程、人が少ない。ひとかどの代官屋敷なら、かなりの使用人が居て然るべし。それが、まばらであった。
 屋敷の最も奥にある祈願所。
 上杉謙信の毘沙門堂を彷彿させるそこからは、異様な気配が辺りに零れていた。名張の佑吉はその中を確認した。そして、驚きの余りに、思わず絶叫しそうになった。
「エロイムエッサイム……エロイムエッサレム……神の子を貶め賜え」
 そこにいた大久保長安は、全裸でそのような真言を唱えながら、湯気がおさまらぬ鮮血にまみれて、うっとりと恍惚の表情を浮かべていた。その足元には、異国の言葉で彩られた円陣がある。生きたまま腹を割かれたものであろうか、若い娘が転がっていた。祈願所のなかは、例えるなら、まさに血の海という表現が相応しい。
 大久保長安は真言を止めなかった。
 真言を唱えながら両足をついて、腹を割かれ横たわる娘の肢を押し広げた。血がほとばしった。まるで天ほどに怒張する陰部の猛りを、長安はゆっくりと、その奥深くへと導いた。その塗る血糊は、腑のものなのか、果たして生娘のそれなのか、判別など、とうに出来はしない。
 そのとき不思議な事が起きた。
 骸と思われた娘の目が見開かれ
「天下を望むか。魔界と結んで天下を望むか」
と口走り始めたのだ。
「エロイムエッサイム……汝の子羊は僕となりて、魔界を現世に甦らせ候え。徳川三河守の封印されし、忌まわしき結縁を解き放ち、吾が手足となりて働かせ賜わん……エロイムエッサイム……エロイムエッサイム」
 大久保長安の口から出た言葉は、衝撃的な正体であった。
 まさしく家康を呪い利用し、この世を支配すると共に、魔界を蘇らせるというのである。このときの儀式を、西洋では黒魔術のサバトというが、それにより、長安は悪魔との契約を交わしたのだろうか。
大久保長安の肉体は、家康とそう大差ない齢である。にも関わらず
(なんと若々しいものか)
 まさしく魔術の成せる技だろう。
 名張の佑吉は急いで報せようと、祈願所よりゆっくりと退いた。その瞬間、女の口は
「稀客、ゆるりと参れ」
 そう叫ぶと、名張の佑吉の身体は、ふわりと宙に舞い、あっという間に堂内へと引摺り込まれていった。気が付いたら両の手足は蛇に絡め取られて、大の字にされていた。身動きひとつすら取れない。
 内臓のない女は、虚ろな目で名張の佑吉を見下ろした。
「味気ない……生娘の血ではまだ足りぬ……おまえ、生け贄として貰うぞ」
 そういうや否や、名張の佑吉の首に噛みつき、抗う術も与えることなく抉るように囓った。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
 天井にまで吹き出す生温い血を浴びながら、女と長安は恍惚の笑みを浮かべて交わり続けた。
 
 服部正就は生き残った四人からその話を聞かされても
「信じられぬ……信じろというのが無理だ」
と狼狽えた。大久保長安は生きたまま魔物となって、家康を利用し尽くしてこの世を奪うつもりなのだ。
 なんと、恐ろしいことだろう。
(認められぬ……馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な……信じろという方がおかしい)
 しかし忍ノ者は現実主義者だ。夢や幻想を語りはしない。ましてや輩を殺されてまで虚言は吐かぬ。
(さりとてこんな話、本多上野さまは信じない)
 困窮した服部正就は父・半蔵に子細を打ち明けた。
「そうか」
 服部半蔵は落ち着いた口調で呟いた。怯えることも狼狽えもなく、いとも自然に受け答えたのだ。
「父上、おかしいとは思わぬのですか」
「何が?」
「わたしの報せは荒唐無稽にして本末転倒。常人なら取り合って貰えぬ戯れ言の如きものですぞ」
「さりとて事実であろう」
「……は」
「ならばそれに対処するのが我らの務めである」
 服部半蔵は淡々と答えながら、何事かを思案している様子であった。もはや服部正就の出る幕はない。こうも醜態を晒した以上は、父の命令に従うしかなかった。
 やがて。
「石見とそれに依る者を切り離せ。奴を孤立させる。そのため本多上野さまには伊達家への揺さぶりを要請すべし。将軍家には八郎(忠輝)さまの素行不良をでっち上げ、伊達との婚姻を断ち切る。石見に依る表の者どもを阻害させてしまえば、遺るすべてが討つべき者よ」
 そのことを迅速に遂行させるよう、半蔵は正就に言い含めた。
(さてと)
 服部半蔵は再び変装し、闇のなかへ消えていった。
 
 徳川幕府創世の頃、江戸にも京・大坂に漏れることなくキリシタンの教会があった。人々はこれを信長の時代から〈南蛮寺〉と呼んで好奇を傾けていた。当然そこには、伴天連と呼ばれる宣教師もいたし、洗礼を受けて信徒となる民も少なくない。
 江戸でこれらキリシタンを庇護していたのは松平上総介忠輝である。彼はただ純粋にその教えに共感を覚えただけであり、他意や邪な思惑の庇護ではない。天下人として絶対的専制君主を望む徳川家のなかにあって、松平忠輝はまさしく異端といえよう。何しろ君主よりも上の存在たるゼウスを崇めることを認めているのだから。
 このとき江戸で布教していたのは、〈フランシスコ会〉と呼ばれる宗派のひとつである。キリスト教にも様々な宗派があり、その国や文化や価値観において教え方や広め方が異なる。そのなかでも、江戸に布教されしこの宗派は、極めて穏健的なものであった。
「ただ神の御子であること」
それだけを純粋に望む彼らは、無害である。
 そして神の御子として自負する彼らになら
(悪魔払いの極意)
があっても不思議ではない。
 服部半蔵の狙いはそこにあった。大久保長安は生きたまま悪魔に身を捧げることで、野望を遂げようとしているのだ。そんな凶悪な悪魔を討ち滅ぼさねば、いずれは家康も殺されこの世も地獄になるのだろう。だから頼りとなるのは他国の神に仕える者たちでしかない。
 服部半蔵は市井に扮して、ミサと称する集会に紛れた。ここに集う人々はすべて純粋で、宣教師も信徒も悪意なく、崇めし神を父とも母とも思い慕っている。信者ではない者から観れば
「なんとも不思議な」
光景であった。自力を頼み戦国を生き抜いた服部半蔵にとって、偶像にも等しい十字の飾り物へ祈りを捧げる人々の姿。しかしそれを笑うことは断じて出来ない。
(寺社とて同じ事よ。真面目くさって木像に武運を願う事さえある。荼吉尼のように不思議を起こすこともある。ならば南蛮のそれにも奇跡は考えられるではないか)
 現実主義者と非科学否定はまた別物だ。そこに奇怪が起きる以上は何事も現実として受け止めるのが当然である。服部半蔵はそういう柔軟な考えの持ち主なのだ。
「あなた」
 ふと、宣教師の脇の男が声を上げた。
 どうやら呼ばれたのは、服部半蔵のようだ。
「あなた、こちらへおいでなさい」
 手招きすらされては、拒むのも不自然である。或いは変装がばれたとも危惧したが
(まさかな……考え辛い)
と、服部半蔵は平静を装って前へ進んだ。手招きした男は編笠を被っていた。その編目越しの奥に光る瞳には邪心が感じられない。いや、むしろ無邪気な輝きすらあった。
「どうです、こういうのも面白いでしょう?服部半蔵殿」
「……!」
「別に驚く必要はないでしょう」
「あんた、誰だ」
「死人が生きていたというのは、戦国の世によくあること。さればこそ、警戒などされずとも宜しい」
 そっと脱いだ編笠の奥で笑うのは、なんと松平忠輝であった。
 むしろ半蔵は、このことこそ驚きであった。
「私は城にいるのが窮屈でね、こうしている方が気が楽なのですよ。生まれてすぐに父に捨てられた身ですから。だからこうしているのが性に合う。キリシタンは嘘をつきませんから、私は身分の垣根を平気で捨てられます」
 松平忠輝は涼しげにそう云った。
 このとき服部半蔵は悟った。この御仁はその意思や行動に関わりなく、政治や権力闘争に己が利用されていることを知っているのだ。しかも自力では抗う術もなく、恰も大河に漂う木の葉の如き存在に過ぎないことを。
 ふと半蔵は思った。
 南蛮の悪魔と戦うには、きっと松平忠輝が役に立つ。
「八郎さまには聞いて貰いたい儀が」
「いいよ、だけどミサが終わるまで待っておくれ」
 やはり涼しげに、松平忠輝は微笑んだ。

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