正解にしなくてもよい
こんにちは。
私は最近、何かを選択する時、迷った時に「どれが正解なんだろう」と考えていることに気が付きました。
まずは進路選択の際。
本当に学びたい分野は心理学だけど、もっと将来の仕事に繋がるような分野に進学した方が良いのではないか?と考えたり、
仕事を辞める時も。
ここで辞めたら後々辞め癖が付くんではないか、今辞めてしまうと、私の人生はすべて崩れてしまうんじゃないか、と考えたりしていました。
これらの選択の際、無意識に、私の人生にとってどちらが正解なんだろうと考えています。
今、振り返ってみると、
大学の進路選択において、高校生の自分は堅実ではなく正解ではない心理学を選びました。
そして今、自分の学びたい心理学を選んだことは、私にとって、とてもいい影響を及ぼしてくれたと思っています。
勉強が楽しいと思えたことも、大切な友人たちと出会えたことも、心理学を学ぶ道を選択しなければ起こっていない出来事です。
何より、大学の4年間はとても楽しかったのです。自分の好きなだけ勉強に取り組める環境は本当にありがたいものでした。
仕事を辞めたことにおいては、良かったのか、悪かったのか、まだわかりません。
しかし、仕事を辞めたこと、実家の仕事を手伝っていくことを選択した今、この選択を、「正解にしなければならない」と考えています。
というのも、私の中で、前職を辞めたことは逃げ(=後悔)になっており、あの時、もっと出来ることがあったのではないかと考えてしまうのです。つまり、前職を辞めたことは私の中でのひとつ目の不正解であり。
選択した後、今更何を考えても変わらないのですが。とにかく、実家の仕事を手伝うという選択もまた、不正解だったのではないかという不安に、時折襲われます。
もちろん、実家の仕事をしていることも、社会に貢献できているし、両親も喜んでくれています。
現状、前職よりは労働環境はめちゃくちゃ良いのです。セクハラなどないですし。体を動かす仕事は体力的にはしんどいですが、精神に良い。
しかし、私の脳内で、こんな生温い環境であぐらをかいて情けない。お前は甘えている。という観念が抜けません。
これは甘えだと、私の中では判定されているようです。
焦りすぎなのでしょう。自分に常に完璧を求める癖が私自身を何度も苦しめています。自己内省を繰り返し、何度も自分を傷つけることは良いことではありません。
自分に完璧を求めるということは、「私という人間は素晴らしい人間なのだ」ということを信じて止まない、間違った方向の自己愛が原因なのではないか。
23歳、もっと立派な大人になっていると信じて止まなかった。それは多分、今もそうであって欲しいと願っていて、しかし、現実は理想ではない。
果たして、私の求める完璧とはどれなのか。それを達成できるのはいつなのか。
考えていて、誰でも気が付くわけです。これは死ぬまで満足できるものではなく、際限のない完璧であると。
実態のない完璧、正解を求めることはマジでくだらないんではないだろうか?
そして、Xを見ていて思いました。
・愛される女子は〇〇な子。自分で自分の機嫌を取る〜。
・この作家の作風は幼稚でつまらない。この作家の作品が良いと言っている人の気が知れない〜。
みたいな文言ありますよね。クソがよ。
クソと言っていますが、私もこのような決めつけと同じことを自分に課していたわけです。
自分の機嫌は自分で取る、立派です。成熟した作風が素晴らしい。一理あります。
しかし、自分の機嫌を取れない人が悪でしょうか。欠点はその人自身を落ち込ませることもありますが、私は他人の欠点を愛らしいと思います。
成熟した作風は素晴らしいです。しかし、成熟したとはいえない破天荒な作品はつまらないのでしょうか。私は人間の欲に塗れたくだらないお話が大好きです。
このように、私自身が欠点ないし完璧ではないものが大好きなのです。
でも完璧ではない自分のことは好きになれないのです。
なんでやねん。
でもなんとなく道理はわかります。自分と他人は違います。
もう、ここまで考えてると、別に正解を選ばなくてもいいんだと思います。
自分にとって正解ではない心理学を選んだことは今の私を豊かにしてくれています。
曖昧で、どこの誰かの意見を踏襲したのかもわからない正解を選ぶことは私にとっての本当の正解とは限らないのです。
正直に言うと、もう本当に手放しに、
自己肯定感マシマシハピハピ頭お花畑ラッキー女になりたいです。
しかしそれはそれでキモいんだろう。逆に自分に嫌悪感を覚えそうです。
自己肯定感マシマシなのに。
考えすぎててロマンチストで本当にヘタレで決断ができない自分はもうアイデンティティなのです。おそらく。
就職でミスり、恋愛も大コケしてる23歳の自分を愛らしいと思える日が来るのでしょうか。
少なくとも、こんな自分も悪くないかと思えたら良いな。