小説「空気男の掟」3
3 死ぬまでにしたいこと
「あい?」僕は美里に聞いた。
「そう、愛」
「あいって何ですか?」
「すごい質問ね」
「初対面の人に愛を求めることなんてできるんでしょうか?」
「できないかしら? それでも、わたしは求めたの」
「僕は、愛というのは関係性のことだと思うんですけど」
「わたしとあなたにとって愛という概念が違うのは仕方ないことよ。あなたとYにとっても違うだろうし。あ、そういえばあなた達の名前を知らなかったわね」美里は理子と僕に視線を向けた。
「谷口理子です」理子が言った。
僕も名前を告げた。
「理子ちゃんにとっても違うでしょ? 愛って何か教えて。ねえ理子ちゃん」美里が聞いた。
「わたしにはよくわかりません。ここにいる誰だってそうじゃないですか?」理子が言った。
「みんなわかってないわよ。でもそれを話すのが楽しいんじゃない」
「もうやめません? この話。すみません、わたし帰ります。ご馳走様でした」
理子が立ち上がって、部屋を出ていこうとした。僕もその後を追った。絡みつくチェックの服を引きずりながら理子の後をついていくと、柔らかい何かを踏んだ。「ギャア」という声がそこから聞こえてきた。そして、洋服の蠢きは波を作り、ドアの方へ向かっていった。
蠢きは理子よりも早く動き、ドアまでたどり着いた。すると蠢く洋服から何かが出てきて廊下に出た。その後に理子が部屋を出た。「あ」という理子の声が聞こえた。僕も理子に続いてドアを抜けて廊下に出た。理子はしゃがんで、何かを撫でていた。「かわいい」理子が言った。理子は座っている猫を撫でていた。茶色と黒のサビ色をした猫だった。猫は、小さな顔についた大きな目で理子の顔を見ていた。動揺することなく、理子をじっと見つめている。人に慣れているのだろう。僕もしゃがんで猫を触ろうとすると猫はするりと避けて、部屋に戻っていった。洋服の中に紛れ込んで猫は姿を消してしまった。
「美里さん、あの子の名前はなんていうんですか?」理子が聞いた。
「あの子? 猫のこと?」
「そうです、茶色と黒の猫ちゃん」
「ああ、マルね」
「マルっていうんですね。じゃあね、マルちゃん」
理子はそう言うと、玄関に行き、散乱した靴の中から自分の靴を見つけ出してドアの外の世界へ抜け出していった。僕もその後を追った。冷えた空気が肺の中を冷やし、頭が少しハッキリとしてきた。理子を追いかけながら駅に向かう道の途中、僕はあることに気がついた。僕は美里の家にスマホを忘れていた。
翌日、パソコンから健二にメールを送り、溝の口駅で待ち合わせをしてスマホをした。健二は溝の口に住んでいる。JRの改札を抜けると、ガラスの前でダンスの練習をしているグループが二組あった。健二も大学生の頃はダンスのサークルに入り、同じように練習をしていたが、今はもう踊っていないらしい。健二が手すりに寄りかかっているのを見つけて僕は声を掛けた。
「健二、悪いな」
「よお。いいよ、どうってことない。スマホないと生活できないだろ? 俺が気づいてよかったよ」
「本当に助かったよ、ありがとう」
「はい、これ」そう言って健二は僕にスマホを差し出した。
「サンキュー。そういえば、あの後、空気男の話は聞けたのか?」
「ほとんど聞けなかった。俺もあの後すぐに帰ったし。じゃあ、俺は用事あるからまたな」そう言って健二は右手を挙げて合図を送り、改札に向かって歩き出した。
「健二、じゃあな」僕は、健二の背中に声を掛けた。
健二はこちらを振り返って僕に手を振った。健二は、人混みに飲まれ改札に吸い込まれていった。こんな風に別れると、僕はいつも思うことがある。この人とは、もう二度と会えなくなるんじゃないかと。駅に向かう人を見送る時は、いつもそんなことを考えてしまう。大抵、最後の別れになることはない。でも、僕の頭はどうしようもなく考えてしまう。これが最後かもしれないと。いつも何気なく使う別れの言葉が、最後の言葉に変わってしまうような気がして悲しくなってしまう。もっと他に言うべきことはあったんじゃないかって、少しの間考えて答えを探している。健二に言うべきことは何だっただろう。「昨日は置いて行って悪かったな」かな。
健二が去ったあと、僕はファミレスで昼食をとることにした。土曜日のファミレスも午後三時になれば、席は空いていた。適当なパスタとサラダのセットを食べて、食後にコーヒーを飲みながらスマホを確認していた。昨日のワインの写真を眺めて、僕は写真を撮った後にボイスレコーダーで音声を録音していたことに気がついた。空気男の情報を正確に聞き取るためだった。僕はワイヤレスイヤホンを装着して再生した。早送りをして、僕らが家から出た後の音声を聞くことにした。後ろめたい思いはあったけれど、そこにしか新しい情報は入っていないことは分かっていた。
「マルっていうんですね。じゃあね、マルちゃん」理子がそう言った少し後に玄関が閉じる音がした。
「2人とも帰っちゃったわね。あなたはどうするの?」
「どうしましょうか」
「よければ一緒に飲まない?」
「もちろんですよ」
「理子ちゃん、帰っちゃったわね。怒ってたかしら?」
「怒ってたのかはよく分からないですけど、あの手の話、今の理子ちゃんにはダメなんですよ」
「あの手の話?」
「愛についての話です。そういう話はダメなんです」そう言うと健二は大きなくしゃみをした。
「ああ、愛についての話はダメなの?」
「そうなんです」
「なんで?」
「それ聞いちゃいます? 理子ちゃんとあいつは一緒に住んでいるんですけど、ずっとセックスレスなんです」
「そうなの?」
「そうなんですよ。ただ、それを問題として捉えているのは理子ちゃんだけなんです。あいつは、特にそうも思っていないみたいなんです。あいつは、理子ちゃんのことを彼女と思っていないのかもしれません。一緒の家に住んでいる同居人としか思っていないのかもしれません」
「でもそんなプライベートなこと、よく知っているわね」
「理子ちゃんから相談されたんです。俺、健二っていうんですけど、健二くんだったら、そういうことある? って。聞かれたときには何て答えればいいかわからなかったですよ」
「何て答えたの?」
「なくもないって答えました」
「曖昧な答えね」
「ええ。でも本当になくはないなって思ったんですよ。俺は彼女と同居をしたこともないし、長いこと付き合っている彼女がいるわけでもないんです。それで、想像してみることにしたんです。5年くらい付き合っている彼女がいるとして、一緒に住んでいてそういうことになるかどうかって。俺も5年前には彼女がいたんです。もしも、その時の彼女とずっと付き合っていて一緒に暮らしていたとしたら、同じように寝ていたかなって」
「どうだったの? その想像では?」
「うまくイメージできないというのが正直な感想です。毎日当たり前に隣に寝ている彼女を抱きたいという欲求がわくのか、俺には自信がありません。五年という年月も長い。可能性がゼロではないということは確かなんです。ただ、1パーセントと99パーセントの範囲のどこかに位置するということしかわからない。だから、理子ちゃんの質問に、なくはないと僕は答えたんです」
「嘘はついていないということね。でも、なんの足しにもならない答えね」
「そうでもないんですよ。理子ちゃんはそれを聞いて確かにそうねって言ってました。人それぞれってことだよねって言ってました」
「それはそうよね」
「ええ、それで理子ちゃんは今後三カ月そういうことがなかったら別れようって決めたんです」
「3カ月?」
「そうです、3カ月です」
「その決意っていつしたの?」
「2カ月前ですね」
「ということは、あと1カ月何もなければ二人は別れるってこと?」
「ええ、そういうことです」
「それは悲しいことね」
「あいつにとってはそうでしょうね。まあ、いいんじゃないですか?」
「あら、意外にあっさりしてるのね」
「あいつ、まともに働いてないんですよ。ライターって自分では言っているんですけど、実際はただのフリーター。俺はそう思ってます。フリーのアルバイターです。文才もないのに何でライター目指しているのかも謎です。そう思いませんか? あいつはただネットで話題になっている事柄を少し調べてまとめてブログに書いているだけなんです。トレンドブログってやつです。ご存じですか? それらしい情報を切り貼り、コピペしてブログを作ってるんです。それでアクセス数を稼いで、広告収入を得ている。理子ちゃんはそのことすら知らない。理子ちゃんにはもっとまともな男がいいんです。あいつじゃない別の男がいい」
「例えばあなたとか?」
「そう俺です」
「そんなことだと思ったのよ。でも、わたしはあなたと理子ちゃんがうまくいくとは思わないわね」
「俺もそう思います。俺と理子ちゃんはきっと心地よい距離感を保つことができないと思うんです。俺が、ずけずけと近づきすぎてしまって、ベッドで一緒に寝ていても理子ちゃんが毎日背中を向けて寝るようになることは何となくわかっています。俺が抱いている感情は、理子ちゃんが好きというよりも、憧れなんだと思います」
「わたしはあなたのこと魅力的だと思う。色んなことを素直に話せるのは素敵なことよ。その素直さはかわいい」
「俺も美里さんのこと素敵だと思います」
「相思相愛じゃない」
「ええ」
「聞きたかったんだけど、あなた、本当はYじゃないわよね?」
「はい、俺はYじゃない。山形だけどあなたの思っていたYではありません」
「理子ちゃんの彼氏がきっとYなのよね」
「あいつがYなのかはわかりませんが、あいつが美里さんにコンタクトを取ろうとしていたことは確かです」
「やっぱりそうね。連絡を取っていた感じと、あなたと話していた感じがうまく一致していなかったの。ピースのはまらないジグソーパズルみたいでなんだか気持ち悪かった。でも、Yが誰かわかってようやくすっきりした。空気男の話聞きたい?」
「ええ、まあ。でも、どうでもいいかもしれません。ところで、もう少し飲みませんか?」
「いいわ。ねえ、もう一杯飲見ましょう。そうしたら」
「そうしたら?」
「さあ、どうしようかしら」
「どうしましょう? とりあえず飲みましょう」
「そうね、ありがとう。さあ、飲みましょう。乾杯」
カチンとグラスがぶつかる音がした。それから健二が大きなくしゃみがした。
「すみません、ワインこぼしちゃって」
「花粉症?」
「今までそんなことなかったんですけどね。さっきからくしゃみが止まらなくなってしまって、目もかゆいんです。すみません」
「いいのよ、さあ飲んで」
「いただきます」
「あーーー」猫が鳴く声がした。
「いただきます」
「うーーー」猫がうなっている。ガタンと扉が閉まる音がした。「うーーー」猫のうなりは止まらない。
僕は、そこまで聞いてボイスレコーダーの再生を停止した。
僕の知らないところで世界は回り続けている。それは致し方のないことだとわかっていた。誰もが主役で誰もが脇役の世界なのだから、僕を慕う人間も、嫌う人間もそれぞれの考えを持って行動している。ステージの上から僕を引きずり降ろそうとする観客もいれば、落とし穴を掘って誰かがいつか引っかかるんじゃないかって楽しみに待っている死神もいる。思い切りハンマーで頭を殴りつけてくる人間だっているのだ。僕らしく生きていくためには、周りは関係ないのだけど、影響を受けないわけにはいかない。それが人間だ。そして僕も脆く打たれ弱い人間のひとりだ。
健二の話を聞いて、僕は動揺していた。自分でも驚くほどに動揺していた。心拍数が自然と上がっている。いつもは気にならない心臓の鼓動がうるさかった。理子が僕との別れを考えていたなんて知らなかった。
理子とこれからも一緒にいたいか? もちろん一緒にいたい。でも、理子とそういうことになることが想像できるか? 毎日隣に寝ている理子とそうなることができるだろうか。もし、それがなかったら僕らは別れることになるのだ。家はどうすればいいんだ。家賃は理子が払っている。僕は新しい部屋を探して、自分の生活を始めないといけなくなってしまう。でも、そんなお金はない。バイトで稼ぐ少しの収入と、ブログで不定期に入ってくる収入しかない。そんな金額で生活していけるのか? ひとりになってしまったら、僕の生活はどうなってしまうのだろう。僕は目を閉じて深く息を吐いた。
「ぎゃははは、バカじゃねえの。お前やばいよ」
通路を挟んだ隣のテーブルで男子高校生グループの騒ぎ声が聞こえてきた。聞きたくなくても耳に入ってきてしまう。大きなエナメルの鞄を通路に置いている。おそらく部活の帰りなのだろう。部活が終わってまで一緒にいるなんて、そんなに楽しいのだろうか。あまりに騒いでいるため、周りの客は顔をしかめているが当の本人たちは気がついていないようだった。もちろん、気がついていてもそのことに配慮するとも思えなかった。店員は困ったような顔をしているが、注意しようともしていない。坊主頭のひとりが席を立った。すかさず周りの人間がその坊主頭の飲み物にテーブルに置かれた調味料を入れ始めた。塩、コショウ、タバスコ。特にタバスコは何度も振りかけていた。高校生たちはニヤニヤしながらそんなことを行っていた。髪の長い茶髪がスマホでその様子を動画に取っている。僕はテーブルを立って、トイレに向かった。坊主頭が手を洗っていた。僕は坊主頭に話しかけた。
「きみ、悪いことは言わない。戻ったらジュースを飲まない方がいい。全部やつらにぶちまけてやった方がいい」
「はい? 何でですか?」
「君のジュースにはタバスコが大量に入れられているんだ」
「はあ、いつものことですよ」
「いつものこと?」
「ええ、いつものことなんです。みんなで一緒にファミレスでご飯を食べるときは、僕が席を立ったらみんなで何かを入れて楽しんでいるんです」
「君はそれに耐えているのか」
「いつものことなんで」坊主は目を伏せた。
「そんなのおかしいじゃないか」
「みんなが笑っていればそれでいいんです。俺が苦しんでいる姿を見てみんなが喜ぶんです」
「君は彼らを友達だと思っているのか?」
「はい、友達です。でも」
「でも?」
「あいつらの誰にも負けるつもりはありません。いつか殺してやりたいとも思ってますけど。それはしないと思います。だから、あいつらには負けない。どんなことでも負けたくない」
坊主頭は、ジッと僕の目を見た。
「もういいですか? 行っても」
「ああ、呼び止めて悪かったよ」
坊主頭はトイレから出て行った。僕は特に何もしていなかったのだが、手を洗ってトイレから出た。席に戻ると、隣のテーブルの高校生たちは腹を抱えて笑っていた。坊主頭が嗚咽をもらしている。それを見た連中は涙を流して笑っている。茶髪は「ヤバいヤバい」と言って、笑いながら動画を撮り続けている。僕は自分のスマホをジーンズのポケットから取り出して、その光景を録画することにした。怒りも通り越した感情で、やけに冷静になっている自分がいた。そして、事実をただ記録することだけに勤めていた。
「おい、なんだ?」僕の行動に気がついたグループのひとりが言った。
グループがこちらを一斉に見た。それでも、僕は黙って動画を撮り続けた。
「なんだ、この人。おかしいぞ」茶髪が言った。
「おかしい?」僕は聞き返した。
「こえ」
「お前らの方がおかしいんじゃないか」僕は言った。
坊主頭が何か言いたそうにこちらを睨みつけてきた。もしかしたら、僕は何もするべきじゃなかったのかもしれない。でも、もう遅かった。
「お前ら迷惑なんだ。出ていけよ」そう僕は言った。
「動画撮るのやめろよ、消せよ」茶髪が言った。
「お前も撮ってるだろ?」
「だから何だよ。俺たちは友達なんだからいいだろ」
「お前たちは、友達にそんなことするのか? 毒を盛るのか?」
「毒なんて大したもんじゃない。ただのタバスコだよ」
「そんなことはどうだっていい。お前らとにかく出て行けよ。もう帰れ」
「なんだこいつ。もういいや行こう」
茶髪がそう言うと、グループはそそくさと出て行った。最後まで残っていた坊主頭が落ち着きを取り戻し、立ち上がった。坊主頭は座っている僕の前に立ち止まり、僕を睨みつけてきた。眉間には皺が寄り、細い目はさらに細められ、誰よりも憎い相手とばかりに僕は睨んできた。肩にかけている白いエナメルバッグは傷だらけで汚れていた。
「誰もあんたの助けなんて必要としちゃいない。あんたがいなくたって問題ないんだ」
坊主頭は、そう吐き捨てて店から出て行った。僕は、それからひきつった表情を緩めることができずにそのまま座っていた。大きくため息をついて頭を抱えて、目をつぶった。自然と脈拍が早くなっていた。少しして心臓のリズムが落ち着きを取り戻してきてから、ようやく僕も店を後にして歩き始めた。僕はとにかく歩くことにした。電車に乗って帰っても、こんな状態で理子と会っても何を話せばいいかわからなかった。僕はただ歩くことに集中した。早く日が暮れて明日になって欲しかった。誰も手を差し伸べちゃくれないのなら、せめてぐっすりと眠りたかった。
気がつくと僕は多摩川沿いのサイクリングロードに出ていた。自転車の他にもランナーやのんびりと散歩をしている人がちらほら見受けられる。颯爽と駆け抜けるロードバイクが僕の横を通り抜けた。僕のシャツが風でなびいた。河川敷では大学生の集団がラクロスをしている。威勢のいい掛け声が聞こえる。まだ日は暮れそうにない。砂埃が巻き起こるグラウンドで活き活きと男女が入り乱れて走り回っている。春の晴れた日に、汗を流しながら高めあうその姿は青春そのもののようだった。僕の大学時代はどうだっただろう。僕の青春は彼らのように爽やかではなかった。
僕の人生が変わった瞬間、それは『空気男に愛を』を読み終えた時だった。僕がなぜ涙を流していたのか、僕にはよくわからなかった。誰のための涙だったのかわからなかった。ただ、わからないながらにわかっていたこともあった。僕は『空気男に愛を』を読んで、心が動かされていた。それまでは、繰り返していると感じていた毎日の中で自分の存在のちっぽけさを感じながら、何も変わらずに生きていくのだろうと思っていた。今日が終われば今日がコピーされたような明日が待っている。バイトを辞めたとしても、同じようなバイトを見つけて働き、夜更かしして寝不足のふてくされた顔で大学に通い、生活は続いていくのだとその日も思っていた。まるで、繰り返される日常アニメのように。僕らは、成長もせず性格も変化しないまま季節を越えていくだけだと思っていた。そして、漠然とした将来の不安や死への恐怖は生き飽きた毎日の中で意味が薄れ、ある種のフィクションになっていた。
涙を流している僕を理子が抱きしめてくれた。僕の涙は止まることはなかった。ただただ、涙は流れ続けた。理子は背中を丁寧にさすってくれた。母親にあやされる子どもみたいに、僕はその優しさに身を任せていた。僕は怖い夢を見ていたのだろうか。いや、僕は夢を見ていたのではない。読んでいたのは絵本だった。誰かに作られた空想の物語が、僕を現実に引き戻したのだ。フィクションが僕を殴りつけた。日常が冷やし固めて凍らせた感情を、黒い帽子の男が粉々に砕いてしまった。砕けてばらまかれた感情は、少しずつ溶けだし僕の涙に変わっていた。
「寝ようか」
そう言うと理子は僕を立たせて、寝室に誘導した。僕らは、小さなシングルベッドに一緒に寝た。何を話すことなく、手を繋いでいた。僕は死のような静かな深い眠りについた。静かにただ静かに眠っていた。僕の命は鼓動を続け、生きることをやめなかった。目覚めたとき、僕は僕らしく生きたいと強く思うようになっていた。その瞬間に僕の世界は変わっていた。理子は静かに微笑みながら隣に眠っていた。幸せそうに眠る理子を見て、僕は一緒にいたいと強く思った。誰かに感動を与えられる人間になりたい。その最初の人は、理子がいい。
理子はその日僕に連絡先を教えてくれなかった。家は教えてくれていても、連絡先を教えてくれないなんて不思議な話だと僕は思った。また会いたいと僕が伝えると、理子からひとつ提案が出された。
「あの公園で待ち合わせをしない? あなたは目印を着けるの」
「目印?」
「そう目印。ちょっと待ってて」
そういって理子は部屋を出て行った。何かを持って戻ってきた。
「これなんかどう?」
黒いハット帽だった。こんなハット帽を着けている人を僕は見たことがなかった。
「これですか?」
「そうこれ。ダメ? 似合うと思うんだけど」
「あんまり帽子を被ったことがないので似合うかはわからないです」
「きっと似合うよ。頭の形も綺麗だし。目印はこれで決まりね。わたしに会いたくなったら夜のあの公園のベンチで待っていて」
「それ以外に会う方法はないんですか?」
「んー、ないとしよう。うちに来たりしたらダメ。それはルール違反。ストーカーだって言って、警察を呼んで対応してもらうから覚悟しておいて。一人暮らしの女の子を守ってくれるのは、セキュリティーの整ったマンション、市民を守る警察、躊躇なく誰かに助けを求める勇気くらいしかないんだから。わたしは躊躇しないよ」
「僕がそんな変質者に見えます?」
「見えない」ハハハと歯を見せて理子は笑った。
「でも、何があなたを変えるかなんてわからない。わたしだって毎日生まれ変わっているんだから」
「生まれ変わってる?」
「寝て起きたら、自分でも気がつかないうちに時間は過ぎちゃってるんだよ。まるで生まれ変わったように、身体の様子だって変わってる。心もすっかり変わっちゃうでしょ? あんなに死にたいと思っていたのに、起きたら何でそんなに落ち込んでいたかなんて忘れてる。なんてことが、わたしにはよくあるの。眠ることで一回わたしは死んでるんだって思うの。それから、死んだわたしの体内のゆがみを名前も覚えられないような沢山の成分がメンテナンスしてくれて、生き返らせてくれているんだって思ってる。身体も心も」
「僕は、生まれ変わっていないです。眠りから目が覚めても僕はあくまで僕だし。昨日の延長線上に今日があって、明日もあると思ってます。だから自分のことが好きでも嫌いでも、僕として生きていくしかない。そうみんな考えているんじゃないかと思ってました」
「考えの相違ね。一回わたしが言ったことを寝起きに思い出してみて。少し世界が違って見えてくると思う」
「ええ」
「ところで、あなたはわたしにまた会いたいの?」
「会いたいですよ」
「ありがとう」理子はそういうと満面の笑みを見せた。
僕は夜の公園で帽子を着けて待った。僕は、街灯が近くにあるベンチを選び腰かけて待っていた。すぐに理子と会えるものだと僕は思っていた。でも、現実はそうではなかった。理子は僕に声を掛けてこなかった。理子が公園の前を通って家に帰っているのかもわからない。僕には待つしかなかった。何日も待ち続けても時間がただ過ぎていくだけだった。特にやることもなかった。僕が勤めていたコンビニも閉店し、街の灯がまたひとつ消え、公園は暗くなった。僕は『空気男に愛を』のことを考えていた。どうすれば、僕はあのような心を動かす物語が作れるだろう。考えてみてもわからなかった。そもそもなぜ心が動かされたのかも明確にわかっていないのだから。でも、僕も何かやってみたいという仄かな野心が生まれていた。
あくる日、僕はスケッチブックと色鉛筆を家の近所の小さな文房具屋で買った。自分へのささやかな投資だ。部屋に置いてあるローテーブルにスケッチブックを広げてみた。狭い空間の中に描くものなんてないような気がしたけれど、とりあえず何か描きたいという欲求が色鉛筆を走らせた。僕は壁に掛けられている木製の時計を描いた。僕が描いた時計の針は1時40分を指している。少しいびつな縁取りになってしまっていたが、案外悪くないじゃないかと自分では思った。思いついた言葉をそこに鉛筆で添えてみた。
さようなら、今
君の知っている僕はもういない
閉じ込められた時間に僕はいない
何やら意味を持ちそうな言葉だなと自分では思った。ただ、その時は深く考えずに眠ることにした。明日も大学で一限の講義がある。僕は起きられたら行こうと甘いことを考えて眠りについた。
僕は毎週金曜日に、誰とも契約してもいないにも関わらず、アルバイトの出勤みたいに足繁く夜の公園に通うようになった。金曜日を選んだ理由は、金曜日なら翌日休みの理子と会えるかもしれないという淡い期待があったからだ。僕は、理子から渡されたハット帽を被ってベンチに座っている。最初のうちはジーパンとグレイのパーカーにハット帽を被っていたりした。ちぐはぐな格好をしていて、自分でも少し気になっていた。
「何あの格好」
ある日、カップルが僕の前を足早に去っていった。その時に聞こえてきた女の声だ。僕もその通りだと思った。ただ、僕にはこの帽子を被り続けなくてはいけなかった。そうなると、帽子に合う洋服が必要だった。
僕の買い物に健二が付き合ってくれた。健二とは英語のクラスが一緒で、ほとんど同じ講義を取っていた。健二はファッションが好きで、様々なブランドに詳しかった。
「この帽子に合う洋服が欲しい」
そういって帽子の写真を見せると、健二は嬉しそうに僕をいくつかの店舗にエスコートしてくれた。そこで僕は、今まであまり着たことがなかったジャケットやウールのパンツを買った。僕はそれを着て、夜の公園に行くようになった。
「この間買った洋服着ないの?」
そう健二から聞かれても、まだ着ないと僕は答えた。
「お前って変わってるよな。せっかく買ったのに着ないなんて。結構高かったのに」そう健二は笑った。僕も笑った。
僕は、夜の公園でスケッチブックを広げて絵を描くようになった。イーゼルなんて持っていないから左手でスケッチブックを支えて絵を描いた。視界に入った物を描写して思いついた言葉をそこに添えるということを繰り返した。最初は時計、次はベンチ、そして街灯といったぐあいに多くの物を描いた。それは、夜の公園だからできたことだった。僕のうまいとは言えない絵を、明るい太陽のもとにさらすのはいささか耐え難かった。詩にもならないような言葉の断片を誰かに読まれることも考えらなかった。それでも、いつか形にしたいと思うようになっていった。そして、それを誰かに見せてみたいという考えを抱くようになっていた。誰にも言えない趣味が僕にとっては心の支えになっていた。夜の公園で絵を描き言葉を添える、それが僕にとって自分らしく生きるための練習となっていた。その頃には、僕はもう理子と会えなくても仕方ないと思うようになっていた。
そう思っていた矢先に悲しそうな顔をした理子が僕に声を掛けてきた。あの日から2カ月が過ぎた11月のことだった。少し肌寒い日だった。季節は、僕に許可も取ることなく冬に移ろうとしていた。
「チャップリンみたいだね」
理子は泣きそうな顔で笑っていた。
僕の大学時代の青春は、決して明るいものではなかった。振り返ってみるとそう思う。ただ、戻ってやり直せるなら何をするかと聞かれても、結局は同じことを選択するだろう。僕は、当時のだらしなくも瑞々しい僕のことが嫌いになれもしない。今の僕は、ここにいる今の僕が好きだろうか。この質問には即答できそうにない。
気がつくと、日は暮れていた。歩き続けて僕はマンションの前についていた。僕と理子が暮らしてきたマンションだ。感情も表情もないはずのマンションなのに、いつもより優しく僕を迎えてくれているように感じた。僕には帰る場所がある。そう思うと、僕は自分がどれほど理子に頼って生きてきたのかを思い知らされた。どんな顔をして理子と会えばいいかわからないけれど、とにかく理子と会いたかった。
僕らの部屋のある五階に着くと、僕はエレベーターを降りた。廊下を歩いていると後ろから声を掛けられた。
「こんばんは」振り向くと鳥男がいた。
「こんばんは」僕は挨拶を返した。
「今日はいい天気でしたね」
「ええ」
「でも、これからは嵐になりそうですよ」
「嵐?」
「ええ、大きな嵐がきそうです」
「そうですか」
「気をつけてください」
「家を出ないつもりなので大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「それならよかったです。ではよい夜を」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
鍵を開けて家に上がり、リビングに向かった。そこには誰もいなかった。スマホを取り出して理子からの連絡が着ていないか確認をした。電話の着信の履歴もメッセージもなかった。リビングのテーブルの上にメモが置かれていた。
さようなら、今
あなたの知っているわたしはもういない
閉じ込められた時間にわたしはいない
理子が僕の前からいなくなった。もし、このまま理子と別れることになってしまったら、死ぬまでにしたいことを僕はできそうにない。死ぬまでにしたいこと、それは、他の誰でもなく理子を感動させることだけだった。
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