小説「空気男の掟」6

6 腐りかけの火種


翌日、ほとんど眠れないまま僕は朝を迎えた。そして、日当たりのいい部屋にカーテンを付けずに暮らすのは難しいことを知った。

僕は、健二に連絡をした。電話をしても健二は出なかった。仕事かもしれない。健二はITベンチャー企業の営業をしている。それもあって健二の人脈は広く、色々と情報が入ってくる。僕はその情報を教えてもらい、ネット記事を作成するということがパターンとしてはほとんどだった。IT業界の噂、SNS上のトレンド、これから話題になりそうなニュースなどを健二は教えてくれた。健二がなぜそんなことをしていたのか、僕は深く考えたことはなかった。僕は特に疑うことなく、健二の情報を信じていた。簡単にネットで情報を収集、加工し、コピーアンドペーストをして記事を作成し掲載をしていた。

「空気男についての新しい情報はある? あったら聞きたいんだけど会えない?」健二にメッセージを送った。理子とのことを健二に伝える気にはなれなかった。だが、誰かと連絡を取らずにはいられなかった。そして、その誰かは健二しかいなかった。

僕は着替えてアルバイトに向かった。

僕は理子と出会ったコンビニで働いていた。卒業後、就職できなかった僕は仕事を探していた。だが、なかなか就職先は決まらずに夏が来ようとしていた。そんな時に、一条さんから人手が足りないから復帰しないかと声が掛かった。時間帯は朝と昼のシフトだったため、一条さんと会うことはほとんどなかった。同様に服部さんとも会うこともなかった。ただ、僕を救ってくれたのは大学でも企業でも実家でもなく彼らだった。


僕は、ほとんど実家と連絡を取らなかった。大学時代も今もそれは変わらない。大学卒業後、一度だけ帰省して以来、実家には顔を出していない。実家は埼玉にあり、父は役所に勤める公務員で、休日にはどこにも行かずに静かに庭いじりしているような人だった。小さい頃からよく覚えているのは、父は身長が大きかったため、いたるところで頭をぶつけていたということだ。玄関、車、換気扇。子どもながらに父が可哀そうになるくらいだった。それでも、父は顔を痛みに歪めながらも笑っていた。父は、ちょっとしたことが人より少しできなかった。ただその変わり、人よりも真面目で物事には真剣に取り組んでいた。狭い庭にはいつも季節に合わせた花が咲いていた。庭いじりに使ったスコップはいつも新品のように輝いていた。

母はそんな父をどう思っているのかわからなった。父を過剰に労わることもなかったし、呆れて突き放すこともなかった。母は何事も要領よくこなしていた。家事を段取りよくこなし、いつも無駄がなかった。そして、余った時間を昼寝に使っていた。母はリビングのソファーでよく昼寝していた。まるで猫のように丸まって気持ちよく寝息を立てて寝ていた。

僕は、大学の卒業式に参加しなかった。卒業しても僕には行き場がなかった。そんな状況で卒業を祝う気が起きなかったし、誰も僕の卒業を祝ってくれるとは思えなかった。卒業式当日、僕は実家に帰った。新宿から埼京線に乗り換えの為に歩いていると、スーツを着た同年代の集団とすれ違った。電車に乗り込むと、袴を着た女の三人組も乗ってきた。その中の顔の丸い赤い袴を着た女と目が合った。僕はすぐに目を逸らした。女達は楽しそうに話し続けている。僕はイヤホンから流れる音楽を無視しながら、外に目をやった。ただ何もせずに僕は埼玉へと運ばれていった。

実家の庭の花壇には白いノースポールが咲いていた。

久しぶりに会った父と母に、何をどう話せばいいのかわからなかった。就職活動がうまくいかなかったことは母に事前に連絡をしていたが、その後の進路については何も話していなかった。どうすることも決まっていなかったからだ。夕飯までの間、僕は自室にこもり、本棚にあった漫画を読んだり、スマホをいじったりしていた。どこにいても僕がやっていることは大して変わらなかった。

夕飯の支度が済んだと母から言われ、テーブルを家族で囲んだ。食事をしていると母が切り出した。

「洋介、今後どうするの?」

「今後?」目を合わせずに僕は返事をした。

「そう、今後。大学卒業した後にどうしていきたいの?」

「どうしていきたいって言われても、就職もできなかったし。どうしようもないんだよ」

「何かやりたいこととかないの?」

「ないよ。俺には、やりたいことはない」僕がそう言うと父は目を伏せて咳ばらいをした。

「実家戻ってくる?」丸い目を少し細めて母が僕を見た。

沈黙が下りてきた。風を入れるために開かれた窓の外から、車の騒音や虫の鳴き声が聞こえてきた。父が長い指で茶碗を持って味噌汁をすすった。

「お父さんはどう思うの?」母が父を見て聞いた。父は茶碗を置いて僕を見た。

「洋介、卒業おめでとう。これからお前はどうしたいんだ」父は落ち着いた声で言った。

「俺は、その」僕は口ごもってしまった。その様子を見て、母が耐えかねたように口をはさんだ。

「ねえ、お父さんはどう思うの?」母が言った。

「母さん、ちょっと黙って。今は洋介の話を聞いているんだよ」温厚な父が声を少し荒げた。そんな父の姿を僕は初めて見た。母は押し黙ってしまった。

「俺は、向こうで仕事探そうかと思ってる」

「そうか。うちには戻ってこないんだな」

「そのつもり」

父は逸らしていた目を僕の方に向け、そして僕の目を見て言った。「うちからは援助はしない、いいな」

「はい」

「お前にとって向こうはそんなにいいところなのか?」

「そういう訳でもないけど。付き合ってる人がいるんだ」

「そうか。わかった」

「はい」

「ところでお前は何がしたいんだ?」

「え」

「なんの仕事がしたいんだ?」

「えー、そうだね、記者というか、ライターというか、そういう仕事かな」

「そうか。わかった」

父は肩の荷が下りたのか、フッと息を吐いた。そしてまた「卒業おめでとう」と言った。

それ以来、僕は父と会話をしていない。僕は逃げ場を失ってしまったように感じた。でも、同時にホッとした気持ちもあった。家を出ることで、父と母に迷惑を掛けることがなくなった。僕は与えられた生を与えられたように生きてきただけかもしれない。それが、大人になっても変わらないのなら、僕は腐ったヘドロのような人生を歩んでいく気がした。水を与えすぎた植物は根を腐らせて死んでしまう。きっと父はそのことをよく知っていたのだろう。理論的にも経験的にも。僕は気がついたら大人になっていたのだ。年齢上は。

翌日、僕は実家を出て家に戻った。歩いていても電車の中でも音楽を聴き続けた。電車の中には東京に向かう人で溢れていた。中吊り広告は目にうるさかった。週刊誌の仰々しい見出し、脱毛サロンの体験料金、若々しくある為に必要だと大げさに掲げるサプリメントのフリーダイヤル、宗教染みた本の広告、そのどれもが胡散臭かった。僕は、目を閉じてイヤホンから流れる音楽に集中することにした。すると、歌うたいは音楽を称賛していた。イヤホンから流れる音楽で世界が変わって見えた、そんなことを歌うたいは歌っている。歪んだギターの音に合わせて大げさに声を出して。

その時に僕は気がついてしまった。そして同時に、世界が少し物悲しく見えてしまった。僕はイヤホンを外した。イヤホンは依存を作る装置だった。そして、歌うたいは誰かの依存なくして生きていけない。なんでそんな単純なことに気がつかなかったのだろう。世界には商業主義が溢れていた。右も左も耳の中も上も下もスマホの中も。僕は目を瞑って電車が揺れる音を聞き続けて運ばれていった。理子の住む街へ。僕には理子しかいなくなっていた。僕はもう家族に頼れない。ひとりの大人として生きていかなければならない。


それから僕は理子と暮らし始めた。たまたま理子の部屋の契約更新が近かったこともあり、僕らは一緒に部屋を探した。ほどなくして、理子の住んでいたマンションから5分ほどのところに、僕ら二人に見合った予算のマンションが見つかって賃貸契約を結んだ。それが今住んでいるマンションだ。元々分譲マンションのようだが、持ち主の転勤が数年前にあって以来、賃貸物件として貸し出しをしているようだ。年に1回開催されるマンションの総会に僕と理子は参加したことがなかった。持ち主にしか総会に参加する権利が与えられないからだ。もっとも、僕は総会に参加したいと思ったことはなかった。

理子と一緒に暮らし始めてからは楽しい日々だった。一緒に食事を取り、飲みすぎないように気をつけながら酒を飲んだ。ただ、僕は無職で就職先を探し求めてもうまくいかない日々が続いた。僕は、就職活動以外の時間には読書をした。僕は理子の本棚から気になる本を手に取り、気の向くままに読んだ。ソファーに腰掛け、開け放した窓の外から吹く風を感じながら、ただ本を読み続けた。気がつくと眠ってしまっていることがたまにあった。

「今日は何をしてたの?」

理子からそう聞かれることが増えてきた。日々が重なると、その言葉が僕を苛立たせるようになった。それは、理子の苛立ちを感じると同時に、情けない自分自身と向き合うことになるからだ。結果の出ない日々が続き、就職活動をしない日も増えてきていた。

「企業研究とスケジュール調整してたら一日が終わってたよ」僕はそう答えた。すると理子は、衣紋掛けに掛けられた綺麗なままのスーツを見てから黙って僕の部屋から出ていった。

「今日は何もしていない」これが本当の答えだった。嘘をつくことでしか僕は情けない自分を守れなくなっていた。そんな日々が続いていた。うまくいかないことが僕をより卑屈にさせていった。新卒で就職できなかった僕を採用してくれる企業なんてないとも思った。

僕の根っこが腐りかけていたその頃に一条さんから連絡がきた。コンビニの人員不足により厳しい日々が続いている、戻ってきて働かないかという内容だった。ベテランのパートが店の商品を内引きしていたことがばれて、2人が同時に首になったという。その2人は新しいスイーツが出る度に金を払わず家に持って帰っていたという。元々人手の足りない店舗だったにも関わらず、更に人員不足に拍車が掛かった。そして、深夜のアルバイトである一条さんや服部さんも昼の時間帯に出勤をしてどうにか店舗を運営している状態だという。僕はいくつか条件を出して仕事に復帰することにした。

 条件一 土日、祝日は出勤しない。

 条件二 勤務時間は遅くとも18時までで残業はしない。

 条件三 ユニフォームの洗濯は自分でやらない。

 条件四 社会保険に加入する。

店長との面接は、コンビニの店舗の奥にある物が溢れかえった休憩室で行われた。面接は形式的な物で僕の採用はすぐに決まった。ただ、僕が店長に条件の話をした時には店長は顔を歪めた。以前より白髪の増えた髪をかき上げて、「まあ仕方ないか、そうだな、仕方ないか」そう自分を納得させるように呟いた。そして、僕に向かって言った。

「わかったよ。ただ、他の人にはこの条件のことは言わないでくれ。高橋くんももう大人だからわかると思うんだけど、特例を認めたってわかると大変なんだよ。他の人の同じような主張も認めないといけないことになるんだ。内引きで首にした2人のことも、店舗の状況を考えれば注意だけでも致し方ないかとも思っていた。でも、今回内引きを知らせてくれたのが、別のパートだったんだ。どうやら他のスタッフも知っていたらしい。注意だけで済ませてしまったら、内引きを何年続けても注意で終わるという前例を作ってしまうことになる。誰もが内引きをしてしまう店舗の出来上がりってわけだ。だから今回、高橋くんが出した条件を飲んだってことは誰にも言わないでくれ。あと、ユニフォームの洗濯の件はどうにかならないかな。家でやってもらえない?」

「ごめんなさい、一緒に住んでいる彼女にここで働いているのを知られたくないので」

「ああ、そういうことだったのか。だから、色々条件出してきたの?」

「はい」

「そうか。うん、わかった。ただこの条件の話は内密に頼むよ」

「はい、ありがとうございます」

翌日から僕は働き始めることになった。その夜、理子に仕事が決まったことを伝えた。僕は、コンビニのアルバイトとは言わなかった。何かやっている風を装ってきた割に、結果的にフリーターに落ち着いてしまうことを不甲斐なく思った。そして、ネット関係の仕事だと伝えた。

「へえ、凄いね。なんて会社なの?」

「ネクストニュース」僕は先週の選考で落ちた会社名を伝えた。ネットニュースサイトを運営しているベンチャー企業だ。

「どんな仕事なの?」

「ニュースを書くんだよ。ネットニュース」

「そうなんだ、なんか凄そう」

「そんな大した物は書かないんだよ。俺が書くのはローカルな物で、誰も読者なんていないんじゃないかな」

「読ましてよ」

「いつかね、いつか」

また僕は嘘をついていた。気がつくと僕の横顔は嘘で塗りたくられていた。こびりついて取れない油のような嘘が僕を形作っていった。虚栄心が僕の中で溢れ、口から零れ落ちていく。

「給料は安いけど、生活費の半分くらいは出せるようになると思う。今まで頼ってばっかりでごめん」

「いいよ、お互い様じゃん」

「ありがとう。本当にいつもありがとう」本心からの感謝だった。

「ねえ、ひとつ聞いていい?」理子は目を逸らして言った。

「何?」

「その仕事は、洋介がやりたかった仕事なの?」理子の大きな茶色い目が僕を捉えて離さなかった。瞬きも止まって見えた。

僕はその視線に耐えられず、目を逸らして天井を見た。「うん、まあね」僕はそっけなく答えた。

「それならいいよ。やりたい仕事なら」


働き始めてから1カ月ほど経ったある日、一条さんから飲みに行かないかと誘われた。そして僕は、久しぶりに外に飲みに出かけた。

「乾杯」一条さんの音頭に合わせビールのジョッキをぶつけあった。

「そして、服部よ、おめでとう。乾杯」そう言ってまたジョッキをぶつけあった。

ビールを喉に流し込んで、みなが思い思いに声を上げた。初夏の陽気にやられた身体には、冷たいビールが染みた。

「服部さん、何かいいことあったんですか?」珍しく飲み会に参加した服部さんに僕は聞いた。

「まあな」とそっけなく服部さんは答えた。

「まあなじゃないだろ服部。言ってやれよ」一条さんが言った。

「俺の口からはいいよ」服部さんはそう言って、ビールに口をつけた。

「何ですか? 何ですか? 教えてくださいよ」僕は言った。

「実はなあ、こいつ漫画の連載が決まったんだよ」一条さんが言った。

「え、凄いじゃないですか。おめでとうございます」僕は言った。

「あ、ありがとう」服部さんが言った。

「こいつ、いつも漫画の『ちゃちゃ』買ってたろ? その『ちゃちゃ』に連載が決まったんだよ。大したもんだよ」

「別に、大したことないよ。たまたま連載が終わる漫画が多かっただけだよ。それに全盛期と比べたら読者の数も減ってるし」服部さんが言った。

「いやいや、凄いって。おめでとう」一条さんがそう言って、僕らはまたジョッキをぶつけあった。

「先生になっちまうとはな。負けてらんないな。なあ、高橋」

「そうですね」僕は答えた。

「高橋は何になりたいんだ、この若造」

「俺は、特にないんです」

「何もないのか、なんだつまんないやつだ」

「すいません」

「じゃあ、俺と一緒に面白いことやるか?」

「いいですね。面白いことって、何ですか? それ」

「トレンドブログって知ってるか?」

「いや、よく知らないです」

「簡単に言うとネットのゴシップ紙みたいなもんだな。政治、芸能、事件、事故とかみんなが興味を持ちそうな情報をまとめた記事をブログに載せるんだ。記事にする情報はネット上にあるものをまとめればいい。簡単そうだろ? もちろん、ただってわけじゃない。閲覧数によって広告収入がもらえるようになる」

「一条さん、それやってるんですか?」

「最近始めたばっかりだけどさ、意外とやりがいあるんだよ。閲覧数伸びてくるとやる気も出るし、広告料も入ってくるようになった」

「どんな記事を書いているんですか?」

「ああ、見るか?」そう言うと、一条さんは顔をにやつかせながら僕にスマホを差し出した。

 

『南武線痴漢常習犯の渡部健朗の仕事は? 家族は? 写真は?』
2018年3月に痴漢容疑で逮捕された渡部健朗は県内在住の高校教師だった!
渡部健朗の勤める高校は川内高校のようです。
変態教師に教えられていた生徒たちは可哀そうですね。
そんな変態教師の渡部健朗は四人家族のようです。
奥さんと子どもが二人いるそうです。
そして、なんとお子さんは二人とも女の子らしいです。
こんな父を持った娘さんは可哀そうですね。
さて、そんな渡部健朗の写真はこちら。
高校のクラスの集合写真が中年の男の部分だけ切り取られ、画像が貼られていた。男の髪には白髪が混じり、くたびれた眼鏡を掛けていた。白いシャツに紺のジャケットを羽織り、薄い色のジーンズを履いていた。口元には小さな黒子があり、うっすら笑みを浮かべていた。 

「な、こいつ変態っぽいだろ?」一条さんが言ってカカカと笑った。

「ええ、まあ。そうですかね」僕は曖昧に答えた。

「一条」服部さんが珍しく大きな声を出して、一条さんの肩に手を置いた。服部さんの太い指には力が込められているようだった。「もう、やめた方がいい。こんなことして誰のためになる」

「服部、なんだよ。触んなよ」一条さんはそう言うと、服部さんの手を振りほどいた。「お前になんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ。何か迷惑かけたか? 服部先生に俺は何か迷惑をお掛けしましたか? なあ、どうなんだよ?」

「俺には、迷惑掛けてないよ。でもさ」

「なんだよ、でもって」

「一条、お前の価値が落ちちゃうんだよ。なあ、勿体ないって。勿体ないって」

「いい加減にしろよ、服部。あ、服部先生でしたね。先生。俺には、そもそも価値がないんだよ。価値がなければ価値が落ちることなんてないだろ? お前と違って俺には価値がない。漫画も描けない。それに、誰にも迷惑を掛けちゃいない。もちろん、服部にだって迷惑は掛けてないだろ? 違うか? 俺は、皆が知りたいことを教えているだけだ。こいつは犯罪者だろ? だったらどう扱われようといいだろう。金ももらえる。俺は暇で時間もある。だったら、やらない理由もない。やるだろ? 高橋」一条さんは僕を見て笑った。

「やめとけ、高橋」悲しそうな顔で服部さんが僕を見た。

「人から」

「ん、なんだ?」

「人から必要とされるんですか」

「そうだよ、読者がいるんだ」

「それだったら、俺やってみたいです。ただ」

「ただなんだ?」

「何を記事にするかは自分で選べるんですよね?」

「もちろん選べるよ。お前がブログの作成者なんだから」

「それだったら、やってみます」

服部さんは悲しそうな顔をしていた。そして、「帰る」と言って三千円を置いて店を出ていった。

その後、服部さんはコンビニの仕事を辞めた。

僕は一条さんにブログの作り方を教わり、トレンドブログを開設した。健二にそのことを伝えると、「実は面白い話があるんだ」と言ってネット上の話題やニュースを教えてくれるようになった。「聞いた話によると、実はああらしい」などの世の中に出回っていない情報を健二が教えてくれた。僕はその情報を基に「関係者によると、真相は〇〇のようだ」などと記事にするようになった。独自の情報を加えることで読者は少しずつ増え、僅かだが広告料も入るようになった。僕が理子についていたライターになったという嘘が本当になった気分だった。

記事にしていたニュースに関しては、正直な話をすると大して興味はなかった。それでも、誰かがきっと読みたい必要な情報なのだろうと記事を作成した。殺人犯の母校はどこか、芸能人の隠し子の名前、政治家のスキャンダル、僕の記事は日に日に増えていったが、僕自身の興味を引くものは不思議なほどになかった。そして、どんな記事を書いても罪悪感は全く湧かなかった。それは、僕の興味がそこになかったからだろう。目の前の誰かではなく、どこかの誰かのことを切り貼りし、インパクトのある見出しを付ける。一条さんを始め、他の人もやっていることだった。パソコンに向かって記事を書いている僕の心は、まるで麻酔に掛けられたようだった。隣の部屋から理子が僕を呼ぶ声がしても、僕は返事をしなくなっていた。理子は次第に先に寝るようになっていった。僕は物音を立てないように気をつけながら、理子の眠る隣に横になって寝た。目を瞑っても先ほどまで浴びていた光で目が休まらず、すぐには眠れなかった。そんな日々が続いた。

そんな時に、健二から空気男の話題を聞かされた。空気男という名前を聞いて、僕は理子と初めて会った日に読んだ絵本のことを思い出した。『空気男に愛を』だ。健二から聞かされる前まではずっと忘れてしまっていた。僕があの日に涙を流したことすら自分で忘れていた。思い出してみると、空気男は僕にとって大事な何かかもしれないと強く感じた。そして、空気男に関しては自分が純粋にただ知りたいと思った。誰かのためではなく、僕のためだった。



バイトが終わって店を出てスマホを見ると、健二から返事が来ていた。

「空気男の新しい情報はない。そんなことより、洋介ヤバいな。大丈夫か?」僕を心配するメッセージだった。理子と別れたことを知っているのだろうか。

「理子のこと?」

「ん、理子ちゃんとなんかあったのか? 俺が言ってるのは理子ちゃんのことじゃなくて、炎上の話だよ。炎上」

「炎上?」

「お前のSNS炎上してるぞ」

「え? なんで?」

「知らなかったのか? 見てみろって」

僕は自分のSNSのアカウントを開いた。すると、無数のコメントが僕を非難していた。

「消えろ」、「金ないのか?」、「人間失格だろ」、「死んだ方がいい」。

どういうことだ? 

「なんで、こんなことになってるんだ?」

「これ見てみろよ」健二のメッセージにはURLが載っていた。

サイトにアクセスすると、「自殺志願者の鞄泥棒は誰?」というタイトルのブログが開かれた。

先日、燃え盛るラーメン屋に男性が駆け込むというショッキングな事件があった。男性は一命を取りとめた。だが、この事件はそれで終わらなかった。筆者は偶然その現場に居合わせ、その事件を映像に収めることができた。男性が鞄を消防士に投げつけた。そして、落ちた鞄を拾った人物がいたのだ。この男だ。
僕が鞄を拾いあげている後ろ姿が写った写真が掲載されていた。
男は、その鞄を周辺にいた消防士に預けるわけでもなくどこかへ持っていった。
僕が鞄を手に持ち歩いている写真が挙げられていた。
男は公園のベンチに座り、中身を物色していた。自殺を図った人物の落とした鞄の中身を物色するなんて、常人には考えられない常軌を逸した行動だ。
僕が鞄の中身を探っている写真が挙げられていた。
SNSでこの男のことを調べると友人という男性から、名前などを教えてもらうことができた。ただ、この男は警察に捕まっているわけではないので実名の掲載は差し控える。代わりに、この男のSNSのアカウントを掲載しておこう。
そして、僕のSNSのアカウントが載せられていた。
この男はトレンドブログの作成者のようだ。友人によると、ブログの内容には嘘が多く混ざっているそうだ。それでも、本人は事実の確認をすることなく掲載をしたという。罪のない一般市民が彼のせいで個人情報をさらされたのかもしれません。そんなの許せないですよね。

僕はコンビニに設置された灰皿の近くに立ち、煙草に火を点けた。メッセージのやり取りだけでは埒が明かないと思い、僕は健二に電話をすることにした。電話を掛けると、すぐに健二が出た。

「何なんだよ、これ」僕は健二に言った。

「ああ、まさかこんなに大事になるとはな」

「こんなに?」

「いや、悪いな」

「どういうことだ」

 友人って出てくるだろ? あれ俺なんだよ」

「健二なのか?」

「ああ、まさかここまで大事になるとは思わなかった。悪い。SNSに洋介の写った写真が載せてあって、名前知らないかって書かれてたんだよ。それで教えたんだ」

「何やってんだよ」

「ごめんて」

「どうしてくれるんだ」

「封鎖すればいいだろ。SNSとブログを」

「簡単に言うなよ。責任取れよ」

「封鎖すればいいって。どうでもいい大して内容のない記事ばっかだろ?」

「お前、ふざけんなよ」

「俺が、教えたこと全部鵜呑みにして書いてたんだろ? だったらくだらない嘘だらけの記事だ」

「嘘だらけ?」

「ああ、俺が教えた話は本当のこともあれば、でっち上げたこともあったんだよ。全部信じ込むお前見ていると、罪悪感とか全く湧かなかったな。馬鹿だなこいつって心の中で笑ってたよ」

「何でそんなことを」

「さあな。自分でもよくわかんないよ。とにかく今言えることは2つある。ひとつ目は、俺はそんなにいい奴じゃないってことだ。ただ、勘違いすんなよ。お前もそんなにいい奴じゃない。それが2つ目だ。もう一度言う。自分がどう思っているか知らないけど、勘違いすんな、お前はいい奴じゃない。じゃあな」

電話は一方的に切られた。僕はまたSNSを開いた、コメントはみるみるうちに増えていく。どうにかしないといけないと思い、僕はSNSにメッセージを書き込むことにした。

「お騒がせしてしまい、すみません。鞄は警察に届けております」そう書き込んだ。そのメッセージにも誹謗中傷のコメントは続いた。僕はスマホをポケットに入れて、煙草を吸い続けた。

「おお」遠くから片手を上げて男が挨拶をしてきた。一条さんだった。

「どうも、おはようございます。今日は珍しく早いですね」

一条さんは、僕の横に立ち煙草に火を点けた。

「まあな。大丈夫か?」

「大丈夫って何がですか?」

「それは、ブログに決まってんだろ」

「さあ、もうどうにもなりそうもないです。どうすればいいんですか、一条さん教えてください」

「悪いな、俺にもどうすればいいかなんてわかんないよ」

「マジですか」

「それに」

「それに、なんですか?」

「自分で蒔いた種だろ? もう自分で処理しろよ」一条さんは僕の目をジッと見た。一条さんの額には汗が雫を作っていた。僕の頬にも汗が伝うのを感じた。夏のように暑い日だった。

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