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小説「空気男の掟」4

 4 夢から醒めて手に入れた物


 理子がいなくなった夜、嵐がきた。何もかも流してしまいそうな雨が降り続き、木さえも根こそぎ飛ばされてしまいそうな風が吹き続けた。

電話をしてもメッセージを送っても理子は応答してくれなかった。外に出ようにも、春の嵐で出歩くことは命の危険さえ感じるような状態だった。もうどうしようもないじゃないかという諦めを抱き、ジタバタもがくのを止めようと思うのだが、何か手掛かりはないかと探してみようと思っている自分がいた。理子の残していたメッセージは、明らかに僕が書いた物を意識していた。

 僕の部屋に行き、隠していたスケッチブックを取り出した。ページ開くと一枚紙がひらりと落ちた。拾ってみると、その紙には理子の綺麗な文字で「なんかいいじゃん。詩みたいで」そう書いてあった。それ以外には何も書いていなかった。理子は、これをいつ書いたのだろう。僕はこのスケッチブックを長いこと開いていなかった。今まで理子にも見せたことはなかった。僕がやっていたことは、他の誰にも言わずにいたのだ。僕が作った物は、思わぬ形で理子の目に届いていた。「なんかいいじゃん」と書かれていることで僕は少し嬉しくなった。だが、理子がどこに行ってしまったのか、その手掛かりになりそうな物は何もなかった。

 もう何を考えても無駄なのだと思い、風呂に入り、歯を入念に磨き、眠ることにした。大きなベッドにひとりきりで僕は眠った。嘘みたいな話だが、その日の僕は久しぶりに深い眠りに落ちた。

 翌日になっても理子はいなかった。スマホには相変わらず着信はない。何日経っても、それは変わらなかった。それにも関わらず、日常はあくまで坦々と続いた。アルバイトに行き、時間が過ぎ、パソコンでネット記事を切り貼りし、面白そうな新しい情報を健二に聞いたりして、またそれについてネットで調べたりといった繰り返しだった。健二には理子がいなくなったことを伝えなかった。

 空気男の記事は、未だにブログに掲載できずにいた。記事として切り貼りできるほどの情報がなかった。それに、おそらく空気男の記事を掲載したとしても、耳目を惹くことはないだろう。多くの人が検索する対象の行いは幸運や善ではない。不幸や悪だ。人々は事故や犯罪の原因を探し、自らの立ち位置を確認し、正義を盾に言葉を放つ。捕まった人間の顔や学歴なんて調べたところで、1カ月後には忘れてしまう。それなのに僕らはそれを調べたがる。アクセスが欲しければ、憎しみの対象を扱う方がいい。そういった意味では、空気男はブログの記事には向かない。空気男を調べることは、僕の興味による物だった。

 僕が前に進むには、空気男のことを調べることが助けになるのだと思った。僕の生き方を変えたきっかけは空気男だった。今回もそうなるかもしれない。

 理子がいなくなった部屋を調べてみると、ひとつだけなくなっていた物があった。『空気男に愛を』が本棚からなくなっていた。インターネットで空気男と調べたところで絵本に関しては目ぼしい情報は出てこない。出てくるのは、SNSで活動している空気男のことがほとんどだった。

 回りくどいことをしていても仕方がないと思い、僕は空気男と会うことを決意した。空気男は僕の望みを叶えてくれるのだろうか。理子と再び会いたいという立派な望みが僕にはあった。一石二鳥じゃないか、そう僕は思った。

僕は空気男にメッセージを送った。相手は川崎市で活動をしている空気男だ。

「お願いがあります。一緒に住んでいる彼女がいなくなりました。見つけてもらえませんか?」

「わかりました。お受けいたします。全力を尽くしますが、結果が出るかどうかはお約束できかねます。また、あなたにとって何か望まない問題が発生した場合も責任は負いかねます。よろしいでしょうか?」

 「かまいません」

 それから僕らは日時を調整し、待ち合わせをすることにした。4月1日の午後2時に僕の住んでいる家の最寄り駅の改札前で待ち合わせをした。改札から出てくる人を眺めていると、後ろから肩を叩かれた。

 「こんにちは」若い男が僕に声を掛けてきた。

 「こんにちは」僕も返事を返した。

 若い男は黒いハット帽を被っていた。僕が大学時代に理子からもらったような帽子だった。服装も、あの頃の僕と同じような服装をしていた。なぜ、そんな恰好をしているのだろう。彼は背が高く、顔を見るために少し見上げる形となった。まつ毛が長く、大きな目は黒目が大きい。高い鼻は鷲鼻になっている。

 「行きましょうか」そう彼は言った。

そして僕らは、喫茶店に入った。彼はハット帽を取った。柔らかそうな黒い髪の毛がオレンジ色の蛍光灯に照らされて光っている。

 「空気男です。こんにちは」

 「こんにちは。Yです」

 「Yさん、本名を教えていただけませんか?」

 「高橋洋介です」

 「なるほど、それでYと名乗っているんですね」

 「Yさんと呼んだ方がよろしいですか? それとも洋介さん?」

 「どちらでもいいですよ。僕にとって何て呼ばれるかはあまり重要じゃないので」

 「わかりました。じゃあ、洋介さんと呼ばせてもらいますね」

 「お好きにどうぞ」

 「ありがとうございます。では洋介さん、今回の依頼はいなくなった洋介さんの彼女を見つけ出す役割をわたしに与えるということでよろしいですか?」

 「ええ、間違いありません」

 「いなくなった人を探す探偵という設定ですか? それとも警察官? どういった設定がいいですか?」

 「どういうことですか?」

 「洋介さんがわたしに与えたい設定を教えて欲しいんですよ」

 「設定ですか?」

 「そうです。設定です。わたしがどういう人間として何をすべきかを洋介さんに設定して頂きたいんです。わたしはそれを演じます」

 「何かふざけてませんか?」

 「ふざけてませんよ。いたって真面目」

 「設定なんて必要ないんじゃありませんか?」

 「洋介さん、待ってください。申し訳ありませんが、設定がなければわたしはその方を探しに行けませんよ。どこの誰かも知らない他人を探す人間がいますか? 限りあるわたしの時間を使って、初対面の人のいなくなった彼女を探そうというんですか? 知らない人がひとりいなくなったとしても、わたしにとってどうでもいいことです。しかし、わたしに設定が与えられれば話は別です。探偵、警察、兄弟、恋人、友人など何でもいいのですが、設定が与えられれば、その方を探す理由ができます。理由がなければわたしは動きません。動き出す理由がないのですから」

 「設定がなければ動いていただけないのですか?」

 「ええ、設定がなければわたしは動きません」

 「わかりました。正直よくわかっていませんが。不思議な考え方ですね」

 「我々のいくつかある掟の一つです」

 「掟?」

 「そうです。空気男の掟です。依頼人から設定をもらわなければならないというものです。設定がなければ理由もない。理由もなければ動けない。だから必ず設定をしてもらっているんです。理由がなければ、人を助けたり、殺したりなんて僕はしません」

 「あなたは人を殺したことがあるんですか?」

 「いえ、ありません。比喩ですよ。今日はエープリルフールですし」

 「そうですか。それならよかった」

 「さて、どうしましょうか?」

 「設定というのは、なんでもいいんですか?」

「ええ、なんだって構いません。その人を探す理由のある設定であれば問題ありません」

 「失踪した姉を探す弟という設定はどうですか?」

 「わかりました。では、お探しする方のことを教えてください」

 僕は、理子について知っていることを空気男に話をした。

 「洋介さん、姉が出て行った原因に何か心当たりはありませんか?」

 「特にないんですよ」僕は嘘をついた。

 「手掛かりになりそうな物はありますか?」

 「テーブルにメモが置いてありました」

 「どのようなメモですか?」

 僕は、写真で撮っておいたメモを空気男に見せた。


さようなら、今

あなたの知っているわたしはもういない

閉じ込められた時間にわたしはいない


 「詩ですか?」

 「さあ、どうでしょうね」

 「場所などの手掛かりにはならなそうですね」

 「一応、わたしに画像を送っていただけますか?」

 「わかりました。送っておきます」

 「姉の連絡先を教えていただけますか?」

 「理子の連絡先は、必要になって問題がないと判断したらお伝えします。それでよろしいですか?」

 「ええ、それでもかまいませんが」

 「個人情報なので、慎重に扱わないといけないので」

 「わかりました。それでは、何か進捗があったら洋介さんに連絡しますね。姉は、きっと僕が見つけてみせます」

 空気男はそう言った。すでに設定に入りこんでいるのだろう。空気男が立ち上がろうとしたので、僕は引き留めた。

「ちょっと待ってください。確認しておきたいことがあるんです。今回の依頼のお支払いに関してですが、いくらぐらいになりそうですか?」

 「洋介さん、お金なんていりませんよ。いなくなった姉を探し出してお金をもらう弟なんていないじゃないですか」

 「確かにそうですけど。君にとってこの依頼は仕事じゃないんですか?」

 「もう違います。わたしは家族を探すだけです。洋介さん、もう敬語じゃなくていいですよ」

 「はあ、そうですか。空気男の活動って何なんですか?」

 「敬語じゃなくていいですって」

 「空気男の活動って何なの?」

 「趣味ですかね。またの名を暇つぶし」

 「色々と聞きたいことがあるんだけど」

 「洋介さん、それは姉を探すことより重要ですか?」

 「いや、そういうわけじゃないけど」

 「では、また別の機会にしましょう。こうしているうちに姉は危険な目にあっているかもしれませんからね。早速、調べてみますよ。それでは失礼します」

 空気男は立ち上がり、お辞儀をした。深々としたお辞儀だったので、ハット帽が頭から落ちた。空気男は、恥ずかしそうに笑った。帽子を拾うと空気男はそそくさと店から出て行った。騒がしい時間が過ぎ去り、置き去りにされた静かな時間の中で、僕はコーヒーをゆっくりと飲んだ。

耳には自然と話し声や物音が聞こえてくる。老人が役に立ちそうにない民間療法について説明している。胡散臭い男が大学生にねずみ講の説明をしている。中年女性があの頃のことを話している。店員が預かった金額を数えて、ガチャンとレジの引き出しが開く音がした。カチャカチャと食器が触れる音がいたるところから聞こえる。今日もいつも通りに時間は進んでいる。目を瞑っても音は消えることがなかった。当たり前のことだ。僕は、深呼吸を三回して目を開けた。


 空気男に会った日の夜に、僕は奇妙な夢を見た。

 中島みゆきの「僕たちの将来」がBGMとして流れている。

夢の中では、全ての人が空気男の絵本に出てきた登場人物のように瓶状のシルエットとなっていた。顔もないシルエットだったが、目に映るシルエットが誰なのかが、僕にはわかった。僕は僕であり、理子は理子なのだとわかった。夢は、あの公園で僕が理子を待ち続けているところから始まった。

「チャップリンみたいだね」

 そういった理子の胸の辺りには黒い煙が少し見える。僕らは理子の家に行き、酒を飲むわけでもなくただ隣に座っていた。

 「あの公園で何してたの?」理子はそう聞いてきた。

 「ただ待っていたんですよ」

 「嘘でしょ」

 「いやー」

 「それ何? 見せて」

 「いやです」

僕がそう言っているにも関わらず、理子はスケッチブックを無理やり奪い取った。そして、スケッチブックを開いて、しげしげと眺めた。

「絵がうまいんだね。びっくりしちゃった」

 「本当ですか? 人から褒められるの初めてですよ」

 「本当、本当。うまいと思う。ただ、なんだか暗くて物悲しい感じあるね」

 「それは、性格の問題かもしれないですね」

 「性格が明るくなれば、明るい絵も描けるの?」

 「きっと」

 「この文は詩?」

 「さあ?」

 「カッコいいこと書いてるじゃん。明るいのも楽しみにしてるね」

 「気が向いたらやってみます」

 「ありがとう。ねえ、なんだか生きるのに疲れちゃった。洋介はそういうことない?」

 「そこまでのことはありませんよ。ただ、繰り返されるような毎日に少し飽きを感じることもありますけど」

 「繰り返される毎日か。それが幸せだったって気づくことがあるかもしれない。わたしは今まさにそう」

 「大丈夫ですか?」

 「うん、きっと大丈夫」

 理子を見ると、弱弱しい理子の中に黒い煙が充満してきていた。音楽のボリュームが上がった。

「僕たちの将来はー」。中島みゆきの気だるそうな歌声が聞こえる。

僕はとっさに理子を抱きしめた。

「僕たちの将来はー」。コツンという無機物がぶつかる音がした。

「僕たちの将来はよくなっていくだろうかー」。それでも僕は力強く理子を抱きしめ続けた。

「シックス」。「ファイブ」。ミシミシという音がして、身体にヒビが入り始めた。

「フォー」。それでも、僕は力を緩めなかった。

「スリー」。すると、バリンという音と共に二人の身体が砕け散り、耳障りな低い歪んだ電子音だけが残った。 


 目覚めると、頭が重かった。まるで二日酔いみたいだった。立ち上がってもバランスがうまく取れない。ふらつく足取りでキッチンに向かった。水が飲みたかった。ペットボトルの水をラッパ飲みすると冷たい水が食道を抜けて胃に落ちていくのを感じた。リビングで充電していたスマホを手に取った。

 「元気にしてる?」

 メッセージがきていた。それは理子からのメッセージだった。たった数文字のメッセージを受け取っただけで、僕は嵐の雲間に一筋の光を見出したような希望に溢れた気分になった。元気にしていると送った方がいいだろうか。僕は少し迷った後に「元気だよ」と送った。

 「そう、それならよかった。わたしも元気にしてる。お願いがひとつあるの?」

 「なに? 電話してもいい?」

 僕は理子から返事がくる前に、僕は理子に電話を掛けた。電話のコールが3回繰り返された後にブチリと回線が切られた。もう一度電話を掛けてみると、1回目のコールの途中で切られてしまった。また、掛けてみるともう繋がらなくなってしまった。

 「ごめん、電話はしたくない」理子からメッセージがきた。

 「直接話したい」僕は返事を送った。

 「ごめん。それは無理」

 「少しだけでもいいから」

「ダメ」

「わかった」

 「要点だけ伝えるね。主に3点です。1つ目は、わたしの荷物について。この後、引っ越し業者みたいな人たちが行くことになってます。その人たちが、わたしの荷物を全部運びだしてくれることになってます。かなり事細かに何を運んでほしいかを伝えてあるので、わたしの物がそっちに残ることはないと思います。もし残ってしまって処分にお金が必要になったら、お金を振り込むので口座を教えてください。2つ目は、部屋について。5月20日で契約が切れることになってます。不動産の管理会社には退去する旨を伝えてあります。どうやらもう新しい入居者が決まっているそうです。退去後の立ち合いはわたしがすることになっています。5月19日までには引っ越しをすませてください。部屋の鍵はドアの鍵を掛けた後に新聞受けに入れてください。そうしてもらえない場合は、鍵の交換費用など請求します。部屋の原状回復の費用が発生した場合も、原因が洋介にある場合は費用を請求させてもらいます。例えば、洋介が使っていた部屋の壁紙の貼り替えとか。時々、煙草吸ってたの知ってるよ。3つ目は、こんな形で別れることになってごめんなさい。楽しい時間をありがとう」

 「なんで別れるの? 別れたくない」僕はそう返事を送った。

 僕は落ち着きを失って、平衡感覚を失った猿のように部屋をフラフラと歩き回っていた。結論の変わらない強い決意の前で、僕はなすすべもないのだろうか。理子に繋がるドアは固く閉ざされている。きっと、もうドアをノックしても開かないだろう。いくら鍵を探しても見つからないのだ。そこに理子がいるかもわからない。それでも呼びかけ続けることが僕にできるだろうか。「開けてくれ」と。「一緒にいて欲しい」と。僕の声はもう理子に届くことはないのだろうか。

「部屋の更新と同じだよ。もうさよならだよ。進んでいかなきゃ」理子から返事がきた。

 僕は、ソファーに倒れこんだ。その瞬間にインターホンのチャイムが鳴った。どうやら、誰かがエントランスからうちの番号を呼び出しているようだ。僕は聞こえないふりをして、無視をした。すると何度も繰り返しチャイムが鳴らされた。それすらも無視し続けると、チャイムは鳴りやんだ。ホッとしていると、ガンガンとドアが叩かれた。おかしい。僕はエントランスのドアを開けていなかった。それなのに、誰かがドアの前まで来ていた。一体誰がエントランスのドアを開けたのだろう。ガンガン、ドンドンというドアを攻撃する音は続いている。

 「開けてください。開けてください」男の無感情で事務的な声がした。

 僕は目を瞑って、深呼吸をした。ゆっくりと目を開けた。そして、また目を瞑った。

 「開けてください。開けてください」

 僕は眠ろうとしていた。

 「開けてください。開けてください」

 僕の心臓は急ぎ足で鼓動を続けている。

 「開けてください。開けてください」

 僕への投げかけはいつまでも続いている。

 「開けてください。開けてください」

 僕は何を守りたいのだろう。

 「開けてください。開けてください」

 うるさい。

 「開けてください。開けてください」

 うるさい奴らだ。

 「開けてください。開けてください」

 僕は眠りたかった。

 「開けてください。開けてください」

 静かに眠りたかった。

 「開けてください。開けてください」

 もう何も考えたくなかった。

 「開けてください。開けてください」


 いつまでも続く呼びかけに僕は耐えられなくなってしまった。怒鳴りつけてやろうと思い、僕がドアを開けると見覚えのある男が「こんにちは」と挨拶してきた。
 僕は言葉を失った。そこに立っていたのは、昨日会った空気男だった。空気男の横をすり抜けるように二人の男が玄関に流れ込んできた。僕が無理やりどかされることになった。男たちは手際よくマットを敷いた。靴を脱ぐとずかずかと家に入っていった。そして、家の物を次々と運び始めた。

 「ねえ君、空気男だよね?」

 「はい? 何のことですか?」

 「空気男だろ?」

 「ちょっとよくわかりませんが、わたしは引越し代行業者です。谷口理子さんから依頼を受けております。申し訳ありませんが、許可は得ています。なるべく邪魔にならないように気をつけますのでよろしくお願いいたします。」

 そういうと、空気男は男たちに指示を出し始めた。空気男も次々と荷物を梱包して運びだしていった。僕はソファーに座ってその様子をぼんやり眺めていた。男たちが無駄な動きをせず、ただ物を運び続けた。僕は、思い出したようにスマホを取り出した。その姿を僕はカメラで追うことにした。電動ドライバーでベッドが解体されたり、段ボールに本を詰め込んだり、テーブルが運び込まれたり、テーブルの下に敷かれていたラグが折りたたまれたりした。いくつかの照明が取り外され、部屋が薄暗くなった時点で男たちの作業が終わった。

 「失礼しました」

 空気男が頭を下げて出て行った。リビングには物がほとんど残されていなかった。テレビもテーブルもなくなっていた。何もかもなくなってしまっている。一体今は何時だろうと見上げた先には、いつもあったはずの時計すらもなくなっていた。この部屋にあるのは僕が座っているこのソファーくらいだった。僕は無意識に声を出して笑っていた。物がなくなった部屋に笑い声は嫌というほど反響した。僕以外にこの状況を笑ってやれる人間はいなかった。笑ってやらなければ、あまりに絶望的じゃないか。僕は随分と久しぶりに笑った気がした。

 笑い疲れた僕は目を瞑り、何も考えないことを意識した。それでも無意識に言葉は僕に問いかけを続けた。何も考えたくなくても、思考が続いていくのは、僕が生きているからだった。抜け殻の部屋の中で僕は死んだようにソファーの上に横たわっていた。答えの出ない問題を、僕は自分自身に問いかけ続けていた。僕の中に答えがないことはわかっていた。無駄だとわかっていても、問いかけは続いた。初心者が作ったプログラムみたいに無限ループを続けている。

 ぼんやりとしている間に太陽は沈み、世界は影で覆われた。照明のなくなったこの部屋は真っ暗になっていた。時間は僕の許可を得るわけでもなく、時計がなくともただ淡々と進んでいった。僕はスマホを取り出し、真っ暗な何もない部屋を写真に収めた。

 僕はソファーから身を起こした。確かな空腹を感じて腹を押さえた。僕は、朝起きてから何も食べていなかった。何かを食べようと思い、キッチン向かったが、冷蔵庫もなくなっていた。その事実が僕の心を動かすことはなかった。悲しさや怒りといった感情は湧いてこなかった。ただ、空腹が僕を動かした。家に食べ物がないのなら、外で食べるしかないと思い、部屋を出た。駅前の商店街で何かを食べようと思った。

 外に出て歩き始めると、けたたましいサイレンが聞こえてきた。徐々にその音は大きくなり、僕の横を通り抜けて行った。消防車の後を救急車が追っている。車両が向かった先は、僕の向かう方向と同じだった。商店街に近づくにつれて、焦げ臭い香りがしてきた。商店街に入ろうとすると、消防隊員が入口に立ち、通行人が入らないように止めていた。そこには、人だかりができていた。僕もそのやじ馬たちの仲間入りをして、商店街の様子を見てみた。カレー屋の隣にあるラーメン屋から黒い煙が昇っていた。暗い夜を火花が照らしていた。

 僕は、初めて見る火事の現場に釘付けになっていていた。すると、僕の隣に立っていた眼鏡をかけてスーツを着た男がわめき始めた。

 「おい、行かなきゃいけないんだ。入れてくれ」男が怒鳴った。

 「下がってください。危険です」消防隊員が言った。

 「いいから通してくれ。間に合わないんだ」

 「お下がりください」

 「死ぬんだ、いま行かないと」

 「本当に危険です。下がってください」

 「行かせろ」

 そういうと男は消防隊員に向かって持っていた鞄を投げつけた。そして、タックルをした。消防隊員がよろめいた隙に男は間をすり抜けてかけて行った。男は消火活動を続ける消防隊員の制止をかいくぐり、燃え盛るラーメン屋に入っていった。タックルを受けた消防隊員はすぐにその後を追っていった。やじ馬は衝撃的なシーンに呆然とした。その瞬間、音は失われた。その場にいる誰もが呼吸を忘れた。次の瞬間には静寂はざわめきに変わった。悲鳴を上げる者や固まって動かなくなる者、中にはスマホで動画を取り始める者もいた。そして僕は、うつむいた。下を向いたのは僕しかいなかった。うつむいて見えたのは、男が消防隊員に投げつけた鞄だった。茶色の革のビジネス用の鞄だった。僕はやじ馬が作り出す熱狂を無視して、その鞄を拾った。

 徐々に増えていくやじ馬の塊から僕は抜け出して、近くにある公園に向かった。自動販売機でコーヒーを買ってベンチに座った。公園には滑り台もブランコもない。そこにあるのは街灯と自動販売機とベンチくらいだった。これで公園といえるのだろうか。僕は、一口だけコーヒーを飲んでから拾った鞄を開けた。ガサゴソと中身をあさろうにも、中には何も入っていなかった。金目の物は何もなかった。

 

 交番に入ると誰もいなかった。備え付けの電話の受話器を取り、「御用の方は、こちらの番号に電話を掛けてください」とテーブルに貼ってあった番号に電話を掛けた。

 「はい」受話器越しにザーザーと雑音に紛れて男の声が聞こえた。

 「落とし物を拾ったので、届けにきました」

 「はい、5分ほどでそちらに向かいます」

 交番にはポスターが何枚か壁に貼られていた。指名手配犯、失踪者の情報提供を呼び掛けるポスターだ。昭和60年の失踪者を警察は探し続けているらしい。ポスターの色が薄くなっている。他のポスターには、「この影は誰だ」と防犯カメラの映像に映った誰かの影がクローズアップされていた。また、最近貼られたであろうポスターもあった。失踪した老人の写真と情報が書かれていた。ベージュのジャンパーに黒のズボンを履いた女性。

 引き戸が開いた。振り向くと中年の女性警官がいた。警官は「こんばんは。お待たせしました」そう言って中に入ってきた。ゆらゆらと舞いながら、蛾も一匹入ってきた。

 僕の前に警官は座った。引き出しから書類を取り出し、2Bの鉛筆で記入を始めた。

 「落とし物の届け出ですよね」警官が聞いた。

 「はい、そうです」僕は答えた。

 「何を拾ったんですか?」

 「拾ったのは、鞄です」

 「鞄ですか。拝見させていただきます」

 「どうぞ」僕は鞄を警官に渡した。

 「中には何も入っていないかな」

 そう言って、警官は鞄を開いた。鞄の中身がないかひとつひとつのチャックを開けて確認している。

 「何も入ってませんね。何も入っていませんでしたか?」警官が言った。

 「どういうことですか? 確認していただいた通り何も入っていませんよ」

 「失礼しました。疑うわけではありませんが、念のため確認をさせていただきました」

 「僕も中身は確認しましたが、金目の物は入っていないのは分かっています」

 「金目の物ですか。はい、そうですよね、失礼しました。では、どちらで拾いましたか?」

 「駅前の商店街の入り口です」

 「北口、南口どちらですか?」

 「南口です。ローソンの近くの」

 「わかりました、ありがとうございます。拾ったのはいつですか?」

 警官は書類を書き進めている。

「夕方です」

 「夕方ですか。今日のですか? 具体的な時間はわかりますか?」

 「今日の夕方です。具体的な時間はわかりません。家の時計はなくなってしまって、スマホも見ていなかったので」

 「はあ、そうですか。大体でもいいんですけど」

 「大体と言われてもわからないんですよ」

 「何時に拾得をしたのかということは書かないといけないんですよ。今は午後7時です。どれくらい前でしたか?」

 「そう言われても。そうだ、火事が起こっているのは知ってますか?」

 「ラーメン屋の火事ですよね。まだ沈下していない」

 「そうです。その火事になっているラーメン屋に男の人が消防隊員の制止を振り切って入っていったんです。その時間です」

 「その時間と言われても。あなた、その現場にいたんですか?」

 「ええ」

 「そうですか」

 「わかりました。具体的な時間はわかりませんが、30分前ということにしていただけませんか?」

 「はい、わかりました18時30分に拾得。持ち主が現れなかった場合の権利はいかがいたしますか?」

 「持ち主が現れなかったら、その鞄をもらえるということですか?」

 「はい」

 「いただきたいです」

 「権利は行使ということですね」

 「では、こちらにお名前などのご記入をお願いいたします」


 僕が警官から差し出された書類に個人情報を記入していると、ガラリと引き戸が開けられた。振り向くと老夫婦が俯きながら入ってきた。僕と目が合っても気まずそうに、すぐに目を逸らした。

 「あの」老人が言った。

 「はい、どうしました」警官が聞いた。

 「あの」

 「息子がいなくなってしまって、探して頂きたいんですけど」

 「いなくなった?」

 「息子は精神的に不安定でずっと家にいたんですけど。今日、いなくなってしまって帰ってこないんです」

 「わかりました。ちょっと待っていただけますか?」

 警官はパイプ椅子を持ち出して、老夫婦を座らせた。僕が書類を記入している中、老夫婦は蛾が蛍光灯の周りを飛び回っているのを眺めていた。

 「終わりました」そう言って僕は書類を警官に渡した。

 「いま、コピーを取って、控えを渡しますね」

 「あの、僕の方は緊急じゃないので先にそちらの方に対応してください。僕は外で待ってます」

 「あの、もう終わるので」

 「いや、そちらを優先してください」

 僕が立ち上がると、老夫婦は深くお辞儀をした。僕は交番から出て、夜の闇の中で道路を通過する車を眺めた。火事現場はここからだと見えないが、心なしか商店街辺りの上空が赤く光っているように感じた。あの男は無事だろうか。一体、何がしたかったのだろう。僕には見当もつかない。

 老夫婦の息子は、どこにいるのだろう。息子はもしかしたら死んでしまっている可能性もある。事実はわからないけれど、可能性は0ではない。

 理子は僕の前からいなくなった。それでも、少なくとも生きてはいる。これは、幸運なことだろうか。それとも不幸なことだろうか。きっと幸運なことなのだろう。もしかしたらまた理子に会えるかもしれないという思いを、僕は捨てられていなかった。

 「あの」警官が外に出てきて僕に声を掛けてきた。

 「はい」

 「これ、控えです」

 「はい。先ほどの方達はもう終わったんですか?」

 「いえ、まだこれからです」

 「はあ」

 「ご協力ありがとうございました」警官は敬礼すると、交番に戻っていった。

 持ち主が生きているかもわからない鞄を僕はなぜ交番に届けたんだろう。捨てるわけにもいかないし、持ち主の名前すらわからない。持っているのも気持ちが悪かった。そもそもそんな物を拾うべきではなかったのだ。僕は警官からもらった書類をクシャクシャにしてポケットに入れた。

 家に帰る途中でコンビニに寄り、弁当とカップ麺を買った。家に帰り、キッチンに入ると、それまでは当たり前に存在していた電子レンジや電気ケトルすらなかった。僕はリビングのフローリングの上であぐらをかいて常温の弁当を食べた。うまくもないし、まずくもなかった。ほとんど空っぽになってしまった部屋を見渡すと、まるで理子と暮らしてきた生活が夢のようだった。それとも、僕は今まさに悪夢を見ているのだろうか。

 僕は、お湯を作ることさえ出来ないのでカップ麺を食べることを諦めて、壁に投げつけた。ポケットに入れてあった書類も同じように壁に投げつけた。どんなことをしても僕に文句を言う人間は誰もいなかった。ひとりになるとはそういうことだった。誰も僕を嫌うこともなければ、好くこともない。憎むこともなければ、愛すこともないのだ。例えば、チェックの洋服を部屋中に敷き詰めても、誰も何も言ってこない。それは、きっと美里も今の僕と同じようにひとりだからだ。猫のマルは文句も言わず、その中で生き続けているけれど、人間だったらそうはいかない。もしかしたら、それすらも受け入れている誰かがいるのかもしれないけれど、僕にはそれは難しいように感じた。奇妙な夢から醒めた僕は、孤独に似た自由を手に入れてしまった。僕はそんな自由を望んでなどいなかった。

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