こころの境界線
一日フリーって日は本当に幸せだ。
ゴロゴロしながら、動画見たり、小説読んだり、軽い勉強したり。それから観葉植物をいじったり。なんでもいい、ああ幸せ!な自分がいる。
とこころの声はここまでで本題。昨日『こころの境界線』っていうのを考えていた。人と自分の心の境界線が無くなって、これってどっちの気持ちだっけ??と分からなくなってしまうことがあったからだ。
私はどちらかというと相手の気持ちをよく考えて、行動したり言動したりするところがある。それが優しいなどといわゆる”良い”として褒められることも多い。
けれども、すべてがすべて相手への愛から行われているかというと?がつく。相手の気持ちを考えるの裏側には、嫌われたくないとか否定されたくないという動機が隠れていることが多いからだ。
ただ、それも”悪か”どうかは分からないし、そう決めることは難しい。
昨日、知り合いの方数名とカラオケに行った。私の性格上、どちらかというと親しげに関わったと思う。ただそれが、裏面に出てしまうこともある。
実際のふるまいと、心の距離が結構ずれているところがある。例えば笑顔で笑っていたり、共感しているような表現をしていても、心では『いや、自分とは感性が違う人だな』とか『苦手だな』と感じていることもよくある。
丁度昨日がそんな感じだった。
ただ、こういうギャップが思わぬ形で表面化してしまうことが起こるのである。カラオケが終わって帰り道、その方と二人肩を並べて歩いているとき、すごく焦ってしまう自分がいた。
えっ?何を話せばいいの?頭の中真っ白!
そして、顔が引きつってくる。無言な空間にパニくって、顔だけは平気で居ようとする。
大した会話もできない中、相手から「〇〇さん、歌本当にうまかったっすね」と言われる。なんかそれでさえも緊張して、適当に、「いやーありがとうございます」と
で、その後1秒後に「私こっちがバス停なんで、また!今日はありがとうございました。」と爽やかな笑顔を向けて彼と別れた。
私は、帰り道、そして帰ってから、ずーっと引っかかっていた。
『正直にいうと会話をするところから逃げるように挨拶をした。でもそれを相手は雰囲気で感じ取っただろうか?冷たいな?とか寂しいな?とか思わせてしまったかもしれない。』
『次にあった時には、挽回してより親しく接してあげればいいのだろうか?』
これらの考えがグルグルと回ってしまっていた。
正直に言って、傲慢なのかもしれない、どこか相手を下に見ているような感覚がある。でもそれも自分でわかっているからこそまた悩む。
ただここで私はどう思うのか?という問いが出てきた。
相手の気持ちを考えたり、また変えようと行動したりするのは置いておいて。自分は相手とどうしたいのか?
例えば、仲良くなりたいのか?であれば、どのぐらい仲良くなりたいのか?あるいは、距離を置き続けていきたいのか?
相手の気持ちを考えすぎると、それが自分の事のように一緒になりがちで、さらに自分の気持ちがなおざりになってしまう。
私はどうしたいのか?
私の大きな課題の一つだ。過去の親との関係で、私は人や世間が望む選択をおのずとしてしまうという癖を持ってしまった。
親のせいにしていた時期もあったが、今の自分を変えていく責任を持っているのは自分しかいない。
なので、自分と向き合っているのだが。
最近は、少しずつ自分の望みを自分でキャッチすることができて、それを行動に移して『自己実現』をしてきた。
今回の問いに関しては、『私の心が感じていることを素直に表現しつつ、雑談するぐらいの中にはなりたい』というところに落ち着いている。
今までの癖を変えるっていうのは難しい。ただ、私の言語化をなるべく自分の心と一致するような表現にすることが相手と真に関わるっていうことなのかもしれない。
『相手が好きだから』『相手が気に入るだろうから』が元となって出てくる言葉は、嘘ともいうことができるだろう。
たとえ違ったとしても、自分の感じるところからでるものを言語化していこう。
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