
「目を背ける」ではなくちゃんと「逃げる」
おはようございます。
先日、こんな記事をあげました。
今日は一見相反するような「逃げる」という言葉について書いてみます。
目を背けず、ちゃんと逃げよう
自分の思う人生を生きたい人が出会う問題に「逃げる」がある。
僕らは「逃げちゃいけない」と教えこまれてきた。
でも、こういう界隈にいると「逃げてもいい」と言われる。
そしてこのギャップに苦しむ。
「逃げたいけれど、逃げるのは悪い気がする」
その助け舟になると思って、これを書いている。
参考になればうれしい。
「逃げる」と「目を背ける」がある
「逃げる」に近いものが2種類あるとおもった方がいい。
「目を背ける」と「逃げる」である。
目を背ける:
僕らが「あ、これはあかんやつや」と直感したり、くらーいものが心に差し込んだりするもの
逃げる:
身軽である。覚悟ができている。清々しさすらあるもの。
この違いはなんだろうか?
それは「本当の自分の想いにストレートかどうか?」 つまり、一次情報かどうかの違いだ。
例えば、 バレーで綺麗なレシーブをしたい。でも練習が嫌。
だからレシーブそのものを嫌いになろうとする。
これが「目を背ける」こと。
「練習をやらない理由を作っている」、そんな感覚だ。
この場合、本当の想いはシンプル。
「今の練習が嫌いだから逃げたい」
「レシーブを綺麗にやりたい」
だったら、ちゃんと「今の練習から逃げれば」いい。
逃げたい理由を考えて、自分と向き合おう。
そして、自分に合う練習方法を探し、少しでも続けられるやり方で「綺麗なレシーブ」を目指せばいい。 これが「逃げる」ことだ。
目を背けるのは、自分に嘘をつくこと。
逃げるのは、自分に正直になること。
もちろん、逃げるにはコストがかかる。 手間もある。 人に説明しなきゃいけなかったり、新たな課題が生まれたりもする。
でも、自分の想いには真っすぐ突き進めばいい。
そこに後悔はない。あるのは経験だけだ。
会社員時代、僕は仕事を辞めて独立し環境を変えた。
でも、自分の中のドロドロした部分―― 自分を認められない理由や、その背景にちゃんと向き合わなかった。
「なぜこうなったのか?」 「なぜ自分を許せないのか?」
そうした問いから目を背け続けた結果、3年近く燻ぶってしまった。
「逃げる」とは「向き合う」こと。
「逃げる」ことは「向き合う」ことなのだ。
ちなみに全く後悔はないし、面白い人生を歩んでいると思う。
だが、別に無理にこの人生を歩んだり経験する必要もない。
だからこそ、今すぐちゃんと逃げてほしい。
じゃあ、「逃げる」ためにはどうしたらいい?
自分の存在をすべて認めること。 「自分は幸せになっていい」と許すこと。 (それらですら練習みたいなものだけれど。)
自分は本当に幸せになりたいのか?
どんな 理想の生き方をしたいのか?
だとすれば、それはどんなものか?
まずはそれを描いてみよう。
そして、あとはそれに向かって進むだけだ。
自分の人生を生きるのに、誰の許可もいらない。逃げることでしか開けない道がある。だったら、ちゃんと逃げよう。