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池田使節団の愛おしい哀れさ

幕末から明治にかけて、いくつかの使節団が欧米を訪れている。
有名なのは岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが参加した岩倉使節団だ。

しかし、1864年(文久3年)に幕府により派遣された池田使節団についてはあまり知られていない。
この使節団について調べると、当時の日本が直面する厳しい国際環境や、その使節団の置かれた哀れな立場について考えさせられる。

池田使節団。
横浜鎖港(さこう)談判使節団とも言う。
1864年の2月から8月にかけて、幕府が欧米に派遣した外交団だ。
しかし実際に訪れたのはフランス一国のみで、当時のフランスはナポレオン三世が治める第二帝政期であった。

正使は池田長発(いけだながおき)。
27歳にして大役を任じられ、34名から成る遣欧使節団を率いることになった。
写真を見ると、わりと今風の顔つきで、さわやかな体育会系の現代の若者に着物を着せた、という感じである。

池田は、幕府直轄の学問所である昌平黌(しょうへいこう)で抜群に成績が良かった。
今で言うと東大法学部を首席で卒業したような秀才で、まさに将来を嘱望された若者であった。

この使節団の目的は、開港したばかりの横浜を、再度閉鎖することにあった。
幕末に結んだ条約に基づき、函館や長崎、横浜が外国に開かれたが、その後国内で攘夷気分が高まり、京の朝廷も孝明天皇が攘夷勅命を発したりして、不穏な情勢となっていた。

当時は生麦事件に端を発した薩英戦争が生じたり、関門海峡を通過する外国船に長州藩が砲撃をしたり、フランス人士官カミュの殺害事件が起きたりして、欧米諸国とのあつれきは異様な高まりを見せていた。
幕府は国内の攘夷派をなだめるため、とりあえず江戸に近い横浜の閉鎖をすべく、交渉団をヨーロッパへ向かわせたのである。
その目的には、カミュ殺害事件の賠償交渉も含まれていた。

池田率いる使節団は意気込んでいたであろう。
ここで交渉を成功させると、幕府内での立場が上昇し、出世の道が開ける。
また、神国である日本をやすやすと外国の思いのままにはさせないという、素朴な攘夷的気分もあったことだろう。

使節団はフランスの軍艦に乗って日本を出発した。
途中、上海、インドを経由し、エジプトのスエズで下船した。(まだスエズ運河は完成していなかった)
そこから、生まれてはじめて見る火輪車(汽車)に乗り、カイロへ向かった。
まだ日本で鉄道が1ミリも敷かれていなかったこの時、彼らは汽車のスピードと運行システムに度肝を抜かれたことだろう。

カイロではピラミッドやスフィンクスを背景に記念写真を撮った。
砂漠の中で武士の一団がスフィンクスの前で並んでいる写真はとても印象深い。
一部の者は調子に乗ってスフィンクスの首元まで上っている。
彼らは旅行記に、ピラミッドを「三角山」または「錐形塔」、スフィンクスを「巨人首」と記した。

灼熱の砂漠、火輪車、川幅三丁もあろうナイル川、雄大なピラミッドを見るうち、日本からいかに遠くに来たかを実感して、彼らはすでにこの時点である種のカルチャーショックを味わっていただろう。
無理もない。
現代でも初めて海外を旅行した人は、軽いカルチャーショックを受けるものだが、幕末の日本の環境からまったくの別世界に出て何日も旅行していれば、内面の大きな変化を経験しない方がおかしい。

一行は再び船に乗り、地中海を経てマルセイユに入港した。
港の砲台から、日本の使節団を歓迎する祝砲があげられた。
彼らは馬車に分乗させられ、騎馬隊に護衛されて豪華なマルセイユ・ホテルまで送られた。
その歓迎ぶりと街の美しさに心が奪われ、使節団員の中で感動のあまり泣く者が多かった。

その後、市長の招待でオペラを鑑賞した。
使節団内では、これから厳しい交渉を行うのだからそんな娯楽めいた招待は辞退すべきだという意見もあったが、せっかくのフランスの好意を断るのは良くないとの意見が通った。

マルセイユでは、庶務会計係の横山敬一という男が病気で臥せってしまった。
エジプトの風土病である黄熱病にかかったのである。
フランスの腕利きの医者による診察、アメリカ人老看護婦による手厚い看護も空しく、横山はホテルの一室で亡くなった。

使節一行は横山を残してパリへ出発せざるを得なかったが、横山の病状と危篤、死亡については、毎日電信で報告を受けていた。
使節団の中に杉浦愛蔵という人物がおり、彼が明治になって郵便制度を創設したのは、この時電報を毎日受け取ってその利便性を痛感したからだという。

横山の遺体はマルセイユ市長のはからいで市営墓地に埋葬された。
多くの市民が悲しみ、花輪が送られ、墓所には弔問に訪れる人が絶えなかった。
使節団が帰国する際、墓所のミニチュアが造られ、遺族に贈るために託された。

パリでも使節団は熱烈に歓迎された。
郊外のフォンテンブロー練兵場で行われた皇帝ナポレオン三世による観兵式では、フランス陸軍二万の偉容を目の当たりにした。

皇帝からのリクエストで、使節団の武士の一人が甲冑を身に着け、馬にまたがり日本古武士の姿を披露したところ、大いに注目を浴びた。
それに付き添っていた通訳の塩田という男の馬が言うことを聞かず、騎兵隊の中に紛れ込んでしまったのを見て、ナポレオン三世が大笑いをするという、なごやかな場面もあった。

フランス側の歓迎ぶりには、もちろん思惑があった。
ヨーロッパの進んだ文明を見せつけて圧倒させ、親日的な態度で心を溶かし、横浜鎖港という使節団の目的をあいまいなものにする、という戦術である。
使節団は毎日のようにパリ市内の各所を見物させられ、談判を始めるきっかけさえつかめない状況だった。

それでも、正使池田長発はさすがに使節のミッションを忘れておらず、談判交渉を掛け合い、ようやく外務大臣ドルーアン・ド・ルイとの会談が実現した。
それから、都合7回に渡る交渉が始まった。

最初は、フランス人士官カミュ暗殺事件の賠償問題が扱われた。
これについては15万フランの賠償金が支払われることで決着した。

次に、使節団の第一のミッションである横浜港再閉鎖について話が及んだが、これについてはフランス側は断固として拒否し、交渉は完全に行き詰った。

事態を打開するため、パリに来ていたシーボルト博士が相談役として呼ばれたが、いかに親日家のシーボルトでも横浜再閉鎖は無理筋であり、逆にもっと開港場を増やし、欧米との関係を厚くするようにアドバイスを与える始末だった。
もともと一度結んだ条約を反故にするという非常識な話であり、シーボルトとしては日本のことを思う善意からの提案だった。

池田長発は窮地に立たされた。
交渉はまったく思い通りにいかず、ホテルの部屋で鬱々とし、時に奇声を発することもあった。
毎日見るパリの文物に魅了され、そういう自分が惨めであった。
神経はズタズタにされ、自決することも頭をよぎった。

しかしある日を境に、池田は見違えるほどに元気を取り戻した。

横浜鎖港など愚論であり、むしろ積極的に開国を進めるのが日本の取るべき道であると結論付け、使節団幹部との秘密会議でそれを表明した。
池田は、欧米諸国の歴訪を取り止め(この後ロンドンへ向かう予定だった)、ただちに帰国して幕府にこれを説くべきだと発言した。

なんと、その会議の出席者全員が賛同した。
彼らも交渉の経過を見て我が方の不利を悟り、それだけでなく毎日のパリ生活で西洋文明に圧倒され、フランスに心酔する者となっていた。

使節団の心変わりに対し、フランス側にむろん異存はなかった。
封鎖されている下関海峡の通航を開くことなどを含む「パリ約定」が結ばれ、使節団は帰国することになった。

マルセイユでは往路の時とは別のホテルに泊まったが、前のホテルの社長がとても残念がっていることを聞いた。
その社長は日本人を泊めたことを大変光栄に思っており、横山の病気が伝染性であったために他の宿泊客が他へ移すように要求したが断固として応じず、彼の最期に至るまで心を込めて看病した、ということだった。
使節団は驚き、すぐに荷物をまとめて前のホテルに移った。
ホテルの社長は涙を流して喜んだ。
こういう経験を通して、池田たちのフランスへの思いはますます強められていった。

使節団が帰ってきた時、幕府は仰天した。
交渉の目的とは180度違う約定を結び、それだけでなく攘夷の非なることや更なる開国を叫ぶようになって戻ってきたのである。

幕府上層部は怒り狂い、池田らを免職、減知の上に隠居と蟄居処分にした。
パリ約定は当然批准ならず、破棄されることになった。

そしてそれを確認した英仏蘭米の四か国は、横浜から軍艦を長州に向かわせ、下関海峡にある長州藩の砲台を攻撃し、上陸して占拠した。

池田はその後、情勢の変化により名誉が回復して軍艦奉行並に任ぜられたが、病気を理由に早々に御役御免となった。
その病気は、神経症の伴うものだったとされる。

そして故郷の備前藩(岡山)の井原で隠棲し、子供たちを相手に学校を開いて教えたりしていたが、明治12年に数え43歳で亡くなった。
井原小学校には彼の功績を記念して銅像が建てられている。

池田をけん責し、蟄居処分まで下した幕府だが、横浜鎖港の交渉など、最初から無理なことは分かっていた、という見方は多い。
成功したなら儲けものだが、不調に終わったとしても、攘夷の努力をしているポーズを国内に示し、時間稼ぎをするのが狙いだったという。
恐らくその通りだろう。

そうであれば、池田使節団は幕府の政治に翻弄されたと言える。
その旅の記録からは、最初から無理な使命を課せられた困難さと幕府の非情さが伝わってくる。
攘夷的気分で出発したものの、逆にヨーロッパ文明に強く惹かれていくという、若者たちの心境の変化には、愛おしい哀れさを感じずにいられない。

参考文献:「乱」綱淵謙錠筆





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