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伊藤博文と神戸と国会議事堂

伊藤博文は、昔の1,000円札の肖像になっていたので知っている人も多いだろう。
しかしお札の肖像になっているからと言って、その人に詳しいということにはならない。
 
新しい1,000円札の肖像は渋沢栄一だが、だからと言って日本国民全員が渋沢栄一についてすごく詳しい、ということはない。
せいぜい、「あ、新札や!」と喜ぶ程度だ。
 
伊藤博文の場合、歴史の教科書に初代内閣総理大臣と書いてあるので、子供たちは「ああ、なんか偉い人だな」という風に理解していることだろう。
 
加えて歴史の教科書にはもう1枚、岩倉使節団という、明治4年から6年にかけて欧米を見てまわった使節団の写真が必ず載っており、そこに若き日の伊藤博文もいるので、「ああ、若い時はこんな感じだったんだな」という風に思う人も多いだろう。
 
伊藤博文について一般国民が常識的に知っていることと言えば、だいたいそんな感じだろう。
 
この伊藤博文と兵庫県、中でも神戸は、結構な繋がりがあることはあまり知られていない。
彼は初代兵庫県知事なのである。
 
まず、前回執筆したように、幕末から明治に至る非常に微妙な時期に神戸事件というものが発生したが、この事件の解決に伊藤の名前が出てくる。
 
事件の解決と言っても、最初伊藤は明治政府から依頼されて出向いたわけではない。
 
たまたま長州藩の用事で兵庫の港に船で着いた時に、近くで事件が発生したことを聞き、「えらいことだ!」と思って直接現地に乗り込んでいったのだ。
 
この時に「えらいことだ!」と思い、いても立ってもいられず奔走を始めたことが、伊藤がこの後政府の中で重んじられていくきっかけになったと言える。
 
伊藤はイギリスに密かに留学した経験があり、その際に中国の上海にも立ち寄っている。
欧米の植民地にされたらどんな悲惨な目に遭うかということを、自分の目で見ているのだ。
 
彼は「この事件の処理を誤ると日本が欧米の植民地にされてしまう」という恐怖を、身震いするかのように感じたことだろう。
 
取る物もとりあえず神戸の居留地に行き、イギリス公使ハリー・パークスと会い、勝手に交渉を始めたが、この交渉は決裂する。
 
伊藤はこの時何の権限も身分もなく、欧米側は「何をしに来たのだ」という感じだったらしい。
英語はある程度話せるので、「何か知らないが英語をしゃべるやつがいるから、ちょっと話を聞いてやろうか」みたいな感じだったのだろう。
 
これでは埒があかないと感じた伊藤は、できたばかりの政府に掛け合う。
彼は長州藩士だったので新政府の中で顔が利いた。
そしてこの事件の解決のため、明治政府から正式な交渉の代表者として東久世通禧という人が遣わされるにあたり、伊藤も一緒についていくこととなり、正式な交渉が始まった。
 
明治政府はその時初めて、新政府が発足したことを諸外国に通知した。
実際の交渉は伊藤が仕切り、備前藩士滝善三郎が1人で責任を負って切腹をすることで決着を見た。
 
能福寺というお寺で7人の外国人が見守る中、見事な切腹そして介錯を遂げたわけだが、その場に伊藤もいた。
切腹の場面が絵に残されているが、伊藤博文という名もちゃんと書いてある。
 
そのようにして、まずは神戸事件とのかかわりで、伊藤と神戸との接点が生まれた。
 
次に、伊藤は兵庫県知事に任命された。
 
廃藩置県により兵庫県ができ、その初代知事に伊藤が選ばれたのである。
まだ27歳だった。
 
兵庫県公館という、今の兵庫県庁の南に以前に使っていた県庁の建物が迎賓館かつ資料館として残っているが、その最初の部屋に歴代の兵庫県知事の写真がずらりと掲げられている。
その一番手前の写真は、初代県知事である伊藤博文のものである。
まだ若くてちょんまげで和服姿であり、しかもカメラ目線で、ちょっと笑ってるという、なかなか印象深いものだ。
 
伊藤は兵庫城を、「今からここは県庁である」として使い始めた。
兵庫区の中央卸売市場のそばを兵庫運河が流れ、その対岸に「兵庫城跡」という石碑がひっそりと立っているが、その辺りに昔の兵庫城、そして初代兵庫県庁があった。
すぐそばにある「兵庫津ミュージアム」では、伊博博文の執務した部屋が再現されている。
 
この初代兵庫県庁は狭かったようで、約1年後に今の神戸地方裁判所の建つ場所に移転した。
伊藤は花熊の近くに居を構え、花熊の芸者たちとよく遊んでいたらしい。
 
兵庫県知事は当時とても重要な役職で、他に外国人居留地のある神奈川や長崎と共に、英語ができて交渉力のある人でなければ務まらなかった。
当時の日本は、外国との関係を一歩間違えると国自体が危うくなるという、非常に微妙な状況に置かれていた。
兵庫県知事には、税所篤や陸奥宗光といった選りすぐりの有能な人物が就いていた。
 
そういうわけで伊藤もやり手の県知事として頑張っていた。
そのことを示すものとして、今の旧居留地のひとつの通りの名が、伊藤町となっていることを挙げることができる。
明治初期に伊藤が県知事として外国人との間に立ち、活躍していたことを偲ばせるものだ。
 
そして時が流れた。
伊藤はその後、政府の中で順調に出世していく。
 
大久保、西郷、木戸の維新の三傑が相次いで消えていった後の明治政府内で、伊藤は存在感を高め、立場もどんどんと上がっていった。
 
1885年、内閣制度発足と共に伊藤は初代内閣総理大臣に就任した。
44歳だった。
日清戦争を挟み、組閣は4度に及んだ。
 
当時、国際社会で日本が認められるためには憲法を制定する必要があった。
伊藤は総理経験者でありながら自らヨーロッパへ出向き、ノートをびっしりと書いて勉強に励んだ。
日本に帰ってからも政府高官たちと共に合宿をして条文作りに励んだ。
 
そういうわけで1889年に大日本帝国憲法が制定された時、その憲法に一番詳しいのは伊藤だった。
 
1895年、日清戦争の講和条約をまとめるため、伊藤は総理として外相の陸奥宗光と共に下関において李鴻章と交渉をした。
下関に交渉の場になった料亭が残っており、記念館が建てられている。
 
日露戦争の直前には、ロシアとなんとか話をつけられないかと奔走をした。
 
1905年に終結した日露戦争後、日本は朝鮮の支配を強めていくわけだが、伊藤は初代朝鮮総監という(まだ併合していないので総督ではない)実質日本の朝鮮半島支配のトップの立場に立った。
 
このことにより、今朝鮮や韓国の人たちから蛇蝎のごとく嫌われているわけだが、決してそれほど差別意識はなかったとよく言われている。併合にも反対だった。
 
ともかくそのようにして、伊藤は日本の超重要な人物として重きを置かれていた。
 
彼が存命中のある時、神戸の湊川神社に伊藤の銅像が立った。
 
神社の創立に県知事時代の伊藤が深く関わったことや、神社に相当な寄付をしたということで、感謝の意の表れだった。
 
この像の顛末はかなり劇的である。
 
日露戦争の講和条約としてポーツマス条約が結ばれた際、賠償金が含まれないなど、国民はその内容に非常に不満だった。
 
神戸でも演説会が開かれ、大勢の聴衆が集まり、政府を批判する弁士の話に熱心に聞き入っていた。
 
そのうち、興奮した聴衆が居ても立ってもいられなくなり、湊川神社になだれ込んで伊藤の像を引きずり倒した。
伊藤博文は、「日本政府」の象徴だった。
 
群衆の中の男たちがふんどしを外し、それを6つつなぎ合わせ、伊藤の首にくくり付けて市中を引きずり回し、最後に福原警察の前に投げ捨てて去っていったという。
銅像の鼻や耳はもげて取れ、目も当てられない惨状だった。
 
伊藤はそれを聞き、不愉快だっただろう。
けれども犯人を徹底的に探し出して処罰せよ、みたいなことは言わなかった。
後の太平洋戦争中とは違う、おおらかな時代の空気のようなものを感じる。
まあ伊藤も、「鼻と耳をちゃんと元に戻しておけよ」ぐらいは言ったかもしれないが。
 
1909年、韓国朝鮮人の怨嗟を一身に背負った伊藤は、ハルピン駅で射殺された。
68歳だった。
 
その後、日本国内において同情の声と共に伊藤の評価も上がった。
 
伊藤と仲の良かった実業家の大倉喜八郎が、伊藤の像を立てるという条件で、所有していた別荘を神戸市に寄贈した。
今の大倉山公園だ。
 
それで伊藤の2体目の銅像が立てられた。(1体目の像の一部も使われた)
 
手に大日本帝国憲法を持ち、フロックコートをはおるという、割とカッコいいものだった。
 
この像は、太平洋戦争で供出させられ、弾丸などに変わるという経過をたどる。
 
こうして2体目の像もなくなった。
しかしながら大倉山公園には、その台座が今も残っている。(※写真)
 
台座は階段ピラミッド状で、設計者の武田五一によると、古代ペルシャのマウソロス王の墓をモチーフにしてるという。
 
この武田五一の弟子に当たるのが吉武東里という人物で、彼は後に国会議事堂の設計を担当した。
 
国会議事堂の階段ピラミッド状の特徴的な屋根は、ルーツをたどると神戸の大倉山にある、あの伊藤博文の銅像の台座に行き当たるというわけだ。
 
伊藤博文と兵庫、そして神戸とは、何かと関係がある。

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