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自己肯定感は与えられるものではない

自分で育てるもの

自己肯定感ってね。
自分を肯定する感覚ですよね。
他者に肯定されることで育つものではないんです。

自己肯定感を意識するときって
自己否定の激しい時です。
私はなんでこんなにも自分を否定しているのだろう?と
疑問に思ったときに、肯定する力の弱さに気付きます。

少なくとも私はそうでした。
そしてまず最初は否定され続けて育ったから
肯定する力が育たなかった?と考えました。
結果、親との関係が悪化しました・・・。
この期間もそこそこ長かったですね。

ぐるぐるぐるぐる・・・色々考えて考えて
本を読んだり色んな情報を取り入れていって
いきついたところで気付いたのは
与えられるものではなく育てていくモノだという事。
私は肯定感を育てようとしていなかったので
育っていないという結論に達しました。

育てている暇がなかったんですね。
認めてほしい対象への反応に忙しくて(笑)

これやってると
絶対に育たないんだよね。
だってその人の人生の目的は
私の自己肯定感を高める事ではないから。
意識すらされていないよね(笑)

もしさ逆の立場だったら?って考えるとどうです?
誰かの自己肯定感を高めるために
生きてるわけではないですもんね。
むしろ自分のことで手一杯です。
それは私以外の他者だって
みんなそうです。

お互いにそれぞれが個々に努力するべきことだから。

人のせいじゃないんです。
自己肯定感が育っていないのはね。
社会のせいでもありません。
その一端に原因があっても…です。

私が私に注力する。
私が私を育てるんです。
私が私の人生を生きるんです。
誰かに委任した瞬間
自分の人生を手放してしまったという事です。

委任されたほうは
委任されたことを知らないわけなので
あなたの人生は宙ぶらりんになってしまっている
可能性もあるんですよね。

口は出しても
その人の人生までも背負い込むつもりの人は
まずいない
でしょうから。
それは家族だってそうです。
家族は家族の都合で介入してくるだけです。
みんなね
自分に一生懸命なんです。
無関心ではないですよ。
もちろん愛情や執着もあって
あなたに悪意があるわけではなく
あなたの幸せを願っての言動でしょう。
だけどその幸せのカタチは
あなたの幸せのカタチと同一でしょうか?
そこに家族の悲喜劇が隠れているんですよね。
あなたが思う幸せのカタチと
家族が思い描く幸せのカタチは
似ているかもしれないけど別物なんだよね。

優しくて
人が傷つく様を見たくないって思っていると
なかなか自分を出すのが難しいかもしれないけど
あなたがあなたでいることを心から願っているのが
家族なんだと思う。

私もね。
家族とは色々ありました。
変に気遣ってしまって
自分の本心を出せずに
悶々としていました。

誰かの幸せのカタチをなぞるのって
思っている以上に自分を疲弊させてしまいます。
どうしてか?
それは自分の感じていることを否定し続けることになるからね。
私はここにとても時間がかかってしまったんだよね。
心がしんどすぎて悲鳴を上げ始めたときに
手放しました。
きっかけは友だちからの一言だったんだけど。
それはまたの機会に。

親の幸せのカタチをなぞるのをやめたことで
私自身もすごく生きやすくなったんだけど
親が私の変化を喜んでくれたことにも
驚きました。
多分ね、どういう心境の変化があったか?までは
話していないので、わかっていないとは思うんだけど
「年々表情が良くなってくね。最近いい顔になってきたね」って
言ってくれます。
勝手な思い込みだったんだよね。
喜ばせたくて
認められたくて
必死で機嫌を損ねないように
してたのにね。
そういうのを全部手放して
自分の思いを全部肯定し始めたら
思いがけず親に褒められる?喜ばれることに。

親の心子ども知らず
本当にね。
勝手な思い込みで遠回りをしてしまったのかも?
親の言う言葉のひとつひとつにいちいち反応してきましたけど
そんな必要はなかったのかもしれません。
私自身もひとつひとつの言葉に反応してほしいと思ってもいないし
無意識に口をついて出てしまっている言葉の多い事に
今さらながらに驚きます。

自己肯定感は自分で育てるもの。
とにかくすべてを肯定することから。
人に育ててもらうものではない事を
心に留め置き、一瞬一瞬の「わたし」と向き合って。

簡単な事から
どんどん「わたし」の願いを叶えてあげていく
それでどんどん育っていくから。

私の簡単なことは・・・
コーヒー飲みたいなぁ
はい!飲みましょう!と用意することから(笑)
日々忙しい。
私はね。わたしの願いを叶えていくことで忙しいんだよね(笑)
そしてそれはとてもとても楽しい事なんです。
日々喜びです。


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