論語 子張4 道徳の意義

 子夏がいった。
 「いろいろな技芸や細かな専門的知識といった小道にも見るべきものはある。しかし、国家の治める偉大な事業をなすに当たって頼りになるものではない。だから、君子は国と人を治める大道を学び、小道を学ばないのだ。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 大道とは道徳の事である。道徳とは暗記をしてテストに記述し点数化して終わりなのではない。実際の生活に使用して初めて意味を持つ。使用するという言い方も適切ではないのかもしれない。道徳を使うか使わないかだけではなく、様々なケースにおいて何を道徳として行っていくかを考え続ける事も必要になってくる。

 興味深いのは専門的な知識を小道という言い方をしている事である。私は専門的な知識があれば、全てが解決するのではないかと漠然と思っていたが、そんなことはあるはずがないのは少し考えればわかる。

 一つ目は研究の進歩や技術の変化により既存の知識が事が古くなるからだ。歴史も科学もその面がある。それぞれ、新しい証拠が見つかる事により意味合いが変化する事、より細かい物を見れるようになり、原子が電子や陽子、中性子からなっている事が分かる等があげられるだろう。

 二つ目は技術の使い方と限界である。私達は原子力発電により莫大なエネルギーが手に入ることを知っているしその恩恵に与っている。同時に原子爆弾の熱と爆風と放射能の恐ろしさも知っている。原子力発電の使用にしてもリスクがある事は、自然の力を完全に予想できない事で体験済みである。

 そういった問題を回避するには専門的な知識だけがあっても答えは出ない。
 今はいろいろな分野が細分化されて社会学者や物理学者ではなく、〇〇の社会学者等分野が多くなっている印象だ。だが、本来社会とは様々な要素で成り立っている。

 改めて書く必要はないかもしれないが、知識を付ける事は何も悪い事ではない。むしろ、積極的に吸収し開発する必要がある。だが、単純に自分の専門分野だけをしていればいい、頼まれた事だけをしていればいい、というのは通用しない。その技術をどう使うのかという事を考えるのは道徳の役割ではないだろうか。

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