論語 子張20 善悪ではなく規模が広くなる
紂は暴虐な王の見本にされているが、事実は今日伝えられるほどひどくはなかったのだ。
このことから考えても、人の上に立つ者はすべての汚れを遠ざけるべきである。ひとたび汚名を着ると、天下の汚名をことごとく一身に背負う結果になる。(子貢)
昨今のデジタルタトゥーに通じるものがある。昔は歴史に名を連ねる人だけで良かったかもしれないが現代では自分のSNSでの迂闊な発言や投稿が就職に関わってくるなど、情報と印象の重要性が一般的にも広がりを見せている。さらに時系列も変化がある。没後に尾ひれはひれが付くのではなく、今生きている時代の汚名がかなりの影響を持つ。
印象的な汚れを遠ざけるというのは情報化社会では非常に重要になってくるだろう。それだけ今の商売や商品が中身ではなく印象がとても重要視されているという事だ。何事も信用で物事が回っているのは間違いないが、その影響が中身が深くなるのではなくどれくらいわかりやすい印象が重要視されているのかというのは興味深い。
情報化によって事実により近づくのではなく、分かりやすい印象が広く普及して、一般人もその影響力を良い意味でも悪い意味でも受けてしまうという事なのだろう。これまでネットやニュースなどでSNS上で問題行動を起こしていた人もそれも一つの事実であろうが、それがその人の全てではない。同時に快く自分のコミュニティに入れる事は難しい。
この部分をどう見るか。私個人であれば「そもそも相手にしない」で話が済むのであるが、組織を運営する人はたまったものではない。自分の事だけではなく、関わる部下の身の潔白まである程度は保証しなければいけないからだ。つまりは、部下にする段階で汚名を着ていないのかを判断しなければいけない。
何が悪いのかという考え方よりも、情報化社会における戦略として捉えたほうが分かりやすいかもしれない。