論語 子張21 意味、数、思いが曖昧の中で

 君子の犯す過ちは、日食や月食にたとえられるだろう。過ちを犯すと、すべての人が目を向ける。だが、過ちを改めると、またみんなが仰ぎ見る。(子貢)

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 日食とは月が太陽を隠して一部、または全部が見えなくなる事であり、月食とは地球の影が月を隠してしまう事である。

 太陽や月のような象徴的な物を君子として例えている。その形が欠ける時も人は注目し、また、元に戻るときも皆が注目している。

 ずっと欠けているわけでも地に落ちるわけでもなく、またありのままの形を取り戻す。過ちを犯してもすぐに挽回が可能であるという事だろう。

 しかし、現代では君子であろうと犯した過ちがすぐに復活するのか疑問である。
 そもそも太陽や月なのか、ただの興味を引くだけの光なのかすら分からない。さらに勘違いした一部の人達が騒いで、地面に落っこちてくると実態とは全く別の事を話している。その人たちを馬鹿にしたり、ストレスの捌け口にしたり、人が打った文字かどうかも曖昧なまま膨れ上がり、数を持つ。その数の大きさがそのまま時として事件になり、ビジネスになる印象だ。

 実のところ、君子を君子と判断するのはとても難しくなっているのではないか。自分がより詳しい判断をする以前に、手軽に知りえる情報や媒体で一部分の話だけで判断してしまう。その一部の話すら切り取られ加工され前後の文脈が無視されてしまう。

 それとも本当に君子はいなくなってしまったのか。私には判断がつかない。

 情報化は個人が意識しないと深くならないという事だろう。下手すれば広く浅くでもなく、一部が都市伝説化してしまう危険性がある。

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