論語 子張13 勉強嫌いというデメリット

 子夏がいった。
 「官に就職して余力があれば学問をする。あるいは学問をして余力があれば官に就く。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 官とは役所の事である。政治に携わる者は学問をする必要があるという事だろう。

 しかし、今の時代は役所仕事関係なく勉強をし続ける重要性は高い。それは単に働き方、生き方や満足感が前の時代ほど定まっているわけではないからだ。
 かなり限定的かつ狭い価値観の話になるが、世襲制の時代においては自分の親の仕事を学べば良かった。広い意味ではそれらも勉強といえるが、専門性的な技術を学べばよいのであり、それが社会の主流だった。今の小学校の授業でさえいらない知識のほうが多いだろう。そんな中で求められるのは、単純な働き手の人数だったのではないか。

 世襲制の世の中と比べると今の社会の主流は自由主義である。言い換えれば自己責任。多くの人が米や農作物を作っている中で生活をしている訳ではない。これが非常に大きな違いではないか。
 つまりは就職するにあたって、他人との関係性も一生も前ほど保障されていないのだ。必然的に求められる知識も多様になるという事である。自分からコミュニティを見つけて構築する必要も出て来るかもしれない。

 学校の勉強が何の役に立つのかという疑問はいつの時代にもあると思うが、その気持ちはよく分かる。学校は大多数の人ではなく頭や要領が良い人が輝ける場所、学歴を手に入れる為という認識が一番実感しやすいだろう。

 しかし、そのような実感からくる「学校の勉強が何の役に立つのか」というある種の恨み節は現代においてあまり意味をなさないのではないか。それは誰かのせいにしているという相手依存の問題意識であるからだ。
 自己責任の時代では「勉強を何に使うのか」という自分の視点で考える事、そして実際に使用する事が求められる。つまり人生の一部として学校や学習を使うという事だ。

 学校教育以外の勉強や学習などはたくさんあるが、様々な基礎は学校で習うことが出来る。それらをこなしていくためには好奇心や問題意識が働く何かに出会う必要がある。

 さんざん勝手なことを言ってきたが、さらに勝手なことを言わせていただくと、この部分に公教育との相性の悪さがあるのではないか。
 公教育は通っている視点だと個人の視点になってしまうが、働いている側の視点だとどうしても管理の概念の必要性が出て来る。
 さまざまなすれちがいは、この管理の概念があまり浸透していない、理解されていない、話の筋から漏れてしまっているからこそ起こるのではないかと感じる。
 だからこそ、学校批判は自身の恨みつらみに近いものになりかねないし、
現場の理想も叶いにくいのではないか。

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