埼玉県 放置と虐待防止条例改正案に関する議員と県民のズレの正体に関する考察

 大前提として個人で素人の解釈である。調べも浅いし不足している部分、間違っている部分もある。よって結論が変わる可能性がある。2023年10月16日での印象。曖昧な部分については()で括ってみた。
 目的としては題名の通り、なぜこのようなズレが生じているのか。議員と国民で理解の食い違いがなぜ起きた、一方は説明責任を果たしたとして、もう一方はなぜ納得しないのかを考察すること、そもそもの背景を知ることだ。 
 一見すると「頭のおかしな条例」について不満を言うのではなく、それぞれの意図、特に条例を作成した議員側に沿って話を進め、なぜ「頭のおかしい条例」が出来上がるのかを追っていきたい。

議員と県民の意見の食い違いの本質の一つ目

 結論から言うと条例と具体例に対しての認識の違いが根本にある。そもそも条例というものについて一般人は馴染みがない。
 「一人での子供の留守番、登下校、お使いが虐待に当たる」というのが具体例なのか条例なのかはっきりしていない人が多いのではないか。是非が問題の本質ではなく、具体例と条例が議員と県民で受け止め方がずれているのが対立の問題である。

 一般人にとって条例とは守るべきルールという事で馴染みはあるが、その扱い方、制定の仕方には馴染みが無いので具体例だけを耳にしても「それが虐待にあたるのではないか?」「一生懸命やっているのに虐待していると言われている気がする」という感情になり、それがどんな流れで使われたのかという背景に意識が向きづらい。(実際に私が意見書を見たわけではないが。)

 議員はルールを作る側にあり説明する側にもある。平成29年に虐待禁止条例(出来たのか施行されたのか分からないが)という条例が出来た。
 それにプラスする形で「放置」という項目を追加している。これが今回の条例の改正案。そして問題になっている具体例は議会(おそらく)に説明する時に挙げたものである。性質が違うのである。議団が作ったものが改正案つまりは条例で、議団長が説明したのが具体例である。

そもそも条例とは

 簡単に。国が定めるのが法律で地方自治体が定めるのが国とは別に定める決まり事。メリットとしては地方自治体ごと自分たちの地域に合ったルールを決めることが出来る。

話題に上がっている具体例と議員の条例に問題はない発言

 そもそも、この条例はどういったものだろうか。6年前に虐待をしない為のいろいろな県の決まりごとが出来た。それが虐待禁止条例。しかし当時「放置」という分野について組み込めなかった部分があった。そして現在。昨今置き去りの事件が話題に上がるので「放置」を改めて条例に足そう。これが今回の改正案。それを説明する際に放置の具体例を出した。というのが大まかな流れである。

 そして話題となっている具体例だがこれに不満がたまっている。しかし議員は条例に対して不備はないとしている。条例と具体例がごっちゃになってあたかも具体例に不備がないという認識になっているとは先ほど書いた通りだ。その要因としてニュースなどでは肝心の条例改正案と、具体例を比較して扱っておらず、この改正案と条例がごっちゃになった要因ではないか。
 先に書いておくが条例改正案に「一人でお使い、登下校、留守番が虐待である」という具体例はない。あくまで議会(おそらく)で話したとされる具体例である。
 虐待禁止条例に放置の問題を組み込むことで誤解が生まれるのは予想できるし、インパクトは確かに大きかった。

改正後の条例案

 条例の改正案の方は消されて県の正式な文章を見ることはできなかったが、別な議員のHPで紹介されていた。県が消した事を配慮して全文は載せないが、伝えたいことは条例そのものに「一人でお使い、登下校、留守番が虐待である」と書かれているわけではない事だ。議会の意図もそうであると私は考える。つまり県民の理解と一致していると言える。

 同時にややこしい文でもある。児童の放置の禁止という項目があるのだがそもそも放置の禁止という項目が困難なワードであり、放置がだめなのかという人がでてくるのも頷ける。そしてさらに「九歳以下の子どもを放置(虐待に該当するものを除く)をしないようにつとめなければならない。」ともある。虐待に該当するものとは?
 
 これを読むといよいよ分からなくなる。放置が虐待に当たるのか、放置は虐待ではないがしてはいけないのか分からない。少なくとも虐待に該当する放置があるらしい事とない事を分けているのは読み取れる。
 放置を虐待にするかどうかをとりあえず棚上げしても、どうやら放置はしてはいけないらしい。これだけ読むとそう見えてしまう。

 しかし議団の言い分ではどうも良い放置と悪い放置があるらしい。これは条例を読んで読み取れたのではなく、記者会見や出演した番組での話を前向きに捉え調べて分かった事だ。この時点で一般の人が議団の主張を理解するのは難しい。なぜなら声を聴いていないからだ。そしてそれには時間がかかるからだ。

安全配慮義務って何?

 良い放置と悪い放置はどう判断するのか。議員はそれを説明する時に、もう一つすれ違いを生んでいる要因、この安全配慮義務という言葉を使っている。これは第六条に書かれている項目を一言でまとめた物である。実際に改正前の条例を調べてみてもらいたいが、単純に「大人は子供の安全を守らないといけない、そのために知識をもって配慮しないといけない」という事をまとめたものだ。追加で深夜に外出させてはいけないという事も時間帯を込みで明記されている。つまり、六年前からすでに条例の中に存在していたという事だ。

 そしてこの安全配慮義務というものを議員は念頭に置いて「放置」の問題を組み立てている。この理念自体は記者会見でも出てくるが、私が詳しく知ったのは別な番組だった。そっちを先に見ていなければ聞き流していた。

 この良く分からない概念が浸透していない、もしくは議団の中で独り歩きしている。しかし実際に概念自体は既に条例に組み込まれ、皆持っているはずである。なぜなら子供を守ろうという意思は皆持っているとされているからだ。その前提が県民にもあるという前提、それで良い放置と悪い放置を決めて虐待の中に組み込めるという狙いがズレの原因である。

 構造上の問題もある。だとしたら「放置してはいけない放置」が起こるという事は条例上はありえない。なぜなら安全配慮義務というのは六条で定められておりそれが行き届いていなければ、その時点で条例違反に当てはまるからだ。それを虐待とするか、放置してはいけない放置とするかはもはや言葉遊びでしかないと私は思うが。

どういう事をすれば安全配慮義務をしているのか

 議団長曰く安全配慮義務とは「各家庭で決めるものである」らしい。柔軟性を持たせたものであると説明していた。例えば声掛けだったり、防犯ブザーを付けるだったりさまざまである。

 ここまでの私の印象は、条例に放置の問題を組み込もうとして安全配慮義務を使おうとした結果(議団としては安全配慮義務が大前提だったようだが)、放置と虐待の線引き、関係が複雑になってしまった。
 安全配慮義務という虐待に関する条例を放置に組み込んだ事による複雑化を認識しておらず、議団長は自身の説明、配慮不足と言っているのではないだろうか。

議団長のプロセスの予想と矛盾

 これらの安全配慮義務と放置、虐待の仕組みは番組で議員が話していた事だ。この安全配慮義務という事が保障されているかどうかが虐待であるかどうかのポイントであるというのが主張であった。これが保障されていなければ「一人での登下校、お使い、留守番等」が虐待に当たり、保証されていれば虐待に当たらないという話である。

 簡単に言うと、「家庭内でいろいろな事情があるからそれぞれで決まりを作って話し合いをして安全に取り組みましょう。それが出来ていないと危険につながるので、その行為を虐待ではなく放置という問題についても広く認識しましょう」というのが今回の改正案を丸くした主張である。

 それを聴けばおそらく議団長の条例が間違っていないという発言も頷けるのではないか。

 しかしもう少し考えてみよう。本当に条例に問題はないのか?

条例の限界と社会の矛盾

 安全配慮がなされていれば事故は起こらない。これは本当に現実に沿った解釈なのかどうか疑問が残る。確かに条例の中で安全配慮義務という言葉は出てくるが、議員の言う「放置が虐待かどうかを見る指針」ではなく、「安全に配慮をする」という理念をまとめたものではないか。確かに安全に配慮をするかどうかで放置が虐待に当たるかどうかは一見正しそうに見える。

 しかし人間社会は矛盾が起こるのが当然である。普段、話し合いなどをして安全配慮義務をしていても例えば忙しさで車に子供を忘れてしまった場合。子供に川に行くなと注意したとしても、その日だけ子供が守らなかった場合。安全配慮義務を怠っていると言えるのだろうか。仮に言えたとして親に注意してそれで事件は解決するだろうか。安全配慮は常に守られているべしという前提がそもそも日常的ではない。安全配慮義務が毎日完璧に守られていないことで成り立っている生活を受け止めるべきではないか。

 条例が万能であるとは言わない。このような矛盾に対応するのが県民の通報だろうというのは分かる。
 しかし、この条例改正案、放置の問題が構造上安全配慮義務の主体となる養護者つまりは家庭で完結してしまうので二つの問題があると私は考える。

 一つは各家庭の負担が増え、問題が見えにくくなる事。重篤な事故は様々な要因で起こる。そもそも円満な家庭である前提を疑うべきである。養護者という家庭の単位で放置を条例の中に組み込む形で利用するのではなく「円満な話し合いが出来る家庭環境へむけた各種設計」が放置全般に関して効果的ではないか。ある日家庭が機能しなくなる日を想定していない。そうなる前に介入、もしくは来てもらう。放置や虐待は症状でありウィルスではないと私は考えている。

 二つ目は条例の構造上放置を他人が助ける事が出来ない。例えば子供が車の中に放置されても、それが虐待かどうか改正案の条例に則るならば安全配慮義務という家庭内の問題を他者は判断できないからだ。それが重篤な状態だろうが、登下校だろうが相手の状態に対する記述はなく、家庭内に問題と解決を入れたためである。何度も言うが第六条は養護者の安全配慮義務であり、それに乗っかる形で放置の良し悪しは決定している。ならば放置を県民が通報するという事は構造上ありえない。
 条例とはいわば建前。ただでさえ社会は矛盾を生む。それに柔軟に対応するためにも建前に不備やもれがあってはいけない。しかし通報するかしないかという問題について議団長は「見ればわかる」という「建前」のおかしさに対して「本音」の言い方をしている。それでは条例の不備の説明になっていない。
 改めて分かりにくい条例を作る必要ははたしてあるのか。

それらを踏まえて私が知りたい事

 放置と虐待と安全配慮義務の関係性について、私の理解は合っているのか。議団長は条例の作成に関与していないのに、取り下げを提案、もしくは決定してそれを受け入れた議団のなかでどんな了解や約束事があったのか。

 今回の条例改正案は児童の死亡事故につながる放置の改善と、待機児童への資金調達を目的に作られているように見えるが、放置の問題を話題に上がる児童だけではなく障害者、高齢者も視野に入れるべきではなかったのか。場当たり的な改正案であり埼玉県の虐待防止条例の第一条に値する目的そのものに反するものではないのか。以上を踏まえても改正案に問題はなかったと言えるのか。

改めて県民に説明をするなら

 条例の流れや虐待に対しての放置を勉強し、さらに、安全配慮義務という扱いに疑問が残る指標を取りあえず放置を虐待かどうかの指標に使かうという議員側の理解に沿った上でなら条例に問題はなかったという主張を私は理解できる。会見の始まりを聞くと議員の条例に問題が無いというのも説明をしたというのも分かる。検証するべきはそれ以前の安全配慮義務という概念の使い方と現実的ではない具体例の捉え方だからだ。
 
 県民にとってはどれも馴染みのない言葉である。説明をするなら議団、議会、条例についての関係性を分かりやすく簡潔に話をしてからだろう。しかし、終始説明不足だったという事を認識しているという事だけではなく全体像から説明していくべきである。
 というかこれは個人的な予想であるが、そんな説明をするくらいなもっと直接に支援を結びつける現実を実現させるべきである。議員としては全く話は変わるだろうが、これが県民の本音に近いのではないか。県民というより国民だろうか。

最後に

 まず改めて私の解釈であり、ネットにあった修正案も間違っているかもしれない。もしかしたら養護者についての記述が追加されて問題がないのかもしれない。現に記事を進める中で二か所ほど大きな間違いがあり訂正している。あくまで個人の感想の域を出ない事を理解していただきたい。知識や立場の差がありお互い理解をするのが難しいという前提を持っていただければ幸いである。
 改めて言う必要も無いが私はどちらの味方でも敵でもない。話の構成上議員の発言に提案をして県民の声を予想しているが、所詮は素人が抱えている疑問と予想でしかない。
 
 また、本件は子供の安全を守るという中での一部の話でしかない。もっと大きな視点で物事を見ないとこの問題の本質は分からないはずである。

 そして何より。
 
 問題の火種となった放置に当たる具体例がどのような形でどのように判断されたのか結局私は具体的に分からなかった。どうやら議会での答弁らしいが代表が一人で決めたのか、議団、議会は容認したのか、どんな趣旨だったのか。いつごろどういった経緯で広まったのか。そもそも県なのか党なのかその関係性すら私にはあいまいなままである。
 しかし、一番ネットに転がっていたのはその出所が良く分からない不満点であった。しかも虐待と結びつけられ簡潔に大量にである。
 今回調べていくなかで放置と虐待に関して確かに線引きの認識があいまいになる部分はあった。
 それでも、「安全配慮義務に放置をかけて問題をややこしくしているだけでは?」「結局、家庭という単位に負担を強いているだけでは?」というのが私の率直な疑問である。

 多虐待禁止条例のなかに放置という問題を取り入れたから放置の具体例=虐待であるという伝え方をしているのは狙ってやっているなら悪意もしくは優先するべき何かがあり、分かっていないのであれば勉強不足である。素人が調べて分かる事が偏るのだから。また、そんな思いと同時に具体例をそう答えざるを得なかった議団長の責任は説明不足だけではなく、改正案そのものや議団との連携の問題点であると言えなくもない。こちらはまだ曖昧な思いである。

 実際に私自身も最初はひどい条例だと思った。だから不満を言う人をとやかく言えない。しかし調べていく中で問題の本質が放置が虐待かどうか、変な事を言っている議員から、子供とそれを支える家庭の安全、情報という善悪を問わないエネルギーの扱い方になる。そして「頭のおかしい条例」が議員と国民のすれ違いで生まれているというのが少なくとも理解できる。
 
 少しでも今回の騒動の落ち着きどころになってもらえれば幸いである。
 
 


 

いいなと思ったら応援しよう!