論語 顔淵8 そもそも数は多くないかも。

 衛の大夫である棘子成は言った。「君子というのは実質、中身が大事である。外面的に身を修めたようにし、かざる必要などない」。
 これを聞いて子貢は言った。「惜しいことです。あなたの君子論は。『四頭立ての馬車でも舌には追い付けない』ということわざがあります。外見と中身は別なものではなく一体なのです。虎の皮や票の皮が珍重されるのは、
その毛がついているからです。もし、それが手を取り去ったなめし皮であったとしたら、犬や羊のなめし皮と同じで区別がつきません。このように外面と学問やや礼による飾りも重要なものです。外面と中身が一体となってこその君子と言えます。」

野中根太郎(訳)(2016)『全文完全対照版 論語コンプリート』 誠文堂新光社

 外見と中身の問題については論語の中で何度も話が出てくる。現代では見た目が大事か中身が大事かという話題をよく聞くがこれに対しての答えを示している。

 どちらかが大事ではなくどちらも大事、というのは言葉では分かっている人も多い。むしろうんざりしている人も多いのではないだろうか。「どちらが大事か」という話をする時に、簡単にどちらかに答えを求めるのが問題であると私は考える。

 なぜ必要なのか、なぜ必要ではないのかということを考える時に自分が考えている事は基本的に偏っていると考えた方が良い。相手の話や対立意見を聞くときに、簡単に敵判定をするのも良くない。

 しかし、これらを意識して行うことは難しい。何が正しいかという事は自分の人格、人生と結びついている事が多い。それを否定することは人格そのものを否定する場合がある。
 もっと単純に自身の間違いを素直に認めることはすら簡単ではなく、言い負かしたり正論を言う事は非常に気持ちがいい。

 だが、変化する性質も持つ目的や、全てのことが分かっていない場合、感情を相手にしなければ成り立たない社会であるなら、正しいという事だけでは圧倒的に足りないのである。
 正しさをいくら説いても「知らん。間違ってもいいからやる。」と言われてしまえばそれまでである。現実として人は知識的な正しさや決まりやルールだけで生きている訳ではないという事を忘れがちである。

 話を戻すと、外見、中身に限らずどちらかが悪いと考えている時、たまには警戒をするのをお勧めする。相手を敵として悪者として扱っていないか、少なくとも話を聞くときには疑ってみたい。
 勿論、敵として認定しなくてはいけない物事はある。それらを判断する為には経験に基づいた知識が必要である。

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