論語 子張19 目に見えない実績

 孟氏が陽膚を裁判官に登用した。陽膚は就任に望んで、裁判官としての心得を先生の曽子にたずねた。曽子は言った。
 「為政者が打つべき手を打たないため、人民は土地を失い一家離散のうきめにあっている。だから、もし、おまえが事情を明らかにできても、罪を犯した人間に同情すべきでこそあれ、自分の功績をほこったりしてはいけない」

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 裁判の世界はスポーツのような勝負の世界ではない。競技の世界では勝ち負けに一喜一憂できる。反省も自分の中で完結することが出来る。そう考えると何とも気楽なものである。
 裁判の中では刑の重さや有罪無罪を決める必要がある。しかし、なぜ、そんな犯罪が行なわれたのか、という社会的な問題に直接メスを入れることは出来ない。
 勿論、裁判の中で動機や状況が明らかになれば役に立てる材料は出て来るだろう。全くの無駄であるとは思わないが、裁判に求められる技量に関してはそれが直接、問題の根絶につながるわけではないという事だ。

 三権分立は法律を作る側と運用する側、適用する側を分けている。それは権力が一か所に集中してしまう事によるデメリットを回避する為の策であり、それぞれの分野にいる人がそれぞれの問題に無関心でいてよい免罪符ではない。
 縦割りというのだろうか。権限を与えられるとそれ以上の事は出来なくなり、意識の外に追いやられてしまうかもしれない。
 実際にそれぞれと立場を超えて仕組み上に影響力を持つ事は三権分立を超えてしまう事になる。よって、個人の関心事として法の在り方に触れ続ける事が求められる。

 そして、何よりも言葉や状況で出て来る事が全てではない。一つの問題はまた別な問題が隠れている可能性がある。ちょうど病気とその症状の関係性のようである。違う症状でも同じ病気という事も、同じ症状でも全く違う
病気という事もある。
 また、対応に関しても、鼻水や熱、咳に対し、マスクをつける解熱剤を飲ませる事で解決したと思いがちであるが、そうではない。風邪をひいた原因が何なのか、その根本的な理由を解決できる仕組みを創造できなければ、ルール上解決しただけで、実態が伴わない危険性がある。
 便宜上決めたルールと実態の解決は必ずしも一致するものではない。ルールをむやみに増やすのは実態を無視して人を管理する事に拍車をかけてしまいかねない。

 

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