論語 子張22 学びの難しさ
衛の大夫、公孫朝が、
「仲尼(孔子の字)はだれを師として学んだのか」
と、子貢にたずねたことがある。
子貢はこう答えた。
「文王、武王が伝えた道は、絶えてしまったわけではありません。いまなお人々の間に受け継がれています。賢者はこの道の本質をつかんでいます。また、根本をわきまえぬまでも、断片的に知っている者はいくらでも
います。このように、文王、武王の道は、どこにでも見出すことができるのです。先生は、だれからでも、何か学びとろうとしました。特定の個人を師としたわけではありません」
孔子の君子としての強さの秘訣は誰からでも学ぶ姿勢があった事だ。
論語の中にはこんなエピソードがある。
孔子が、ある地域の祭りごとの細かい所作やルールに対して地域の人に質問をしていたところ、それを見た人が、
「賢者として名が知れているが、実態は何も知らないではないか」
と評したそうである。
それに対して「これが賢者のやり方である」と孔子は意に介さない様子だった。
普段から色々な人から師事を受けているというのは、外から見ると無知のように見えるのだろう。本人は好奇心が強く同時に正しくあろうとした結果なのだろう。
年齢や場所、役柄を問わずに学ぶことが出来るのは簡単なことではない。私達にとっては本を読んだり、先生と言われる人にお金を払って体験することが「学ぶ」である。
しかし学びはいたるところに無数に存在する。そのほとんどは、言い争いになったり、相手の理不尽に振り回されたり、身の回りにあるよく分からない何かである。大抵、相手が悪い、愚痴だけをこぼして忘れる、そもそも気がつかないという人がほとんどだろう。それでは学びの機会を逃してしまうのである。肝心なのは自分が主体になっているかどうかだ。
勿論、すべての事に反応するのが効果的であるとは思えない。そもそも自身の限界を超えた事は出来ない。疲れてしまう。
言いたいのは、学びとは、知識を詰め込んだり何かの言いなりになって物事をこなす事を目的にするのではなく、実際に行って意味を感じる、自分の中で変化を感じる、意識をして差が分かるようになる、という事ではないのだろうか。
「すべてが学び」と言うつもりは無いが、常識的に存在する学びの認識が知識の吸収だけになってしまっているなら、知識と実践へシフトするの事はお勧めしたい。
勿論、知識をただ集めるのも、偉い人の言いなりになるのも時には必要である。「その時」を判断するためにはやはり経験と目的、その目的がどんな物かを判断する哲学が必要になる。