論語 子張23 大したことないのは本人か、私の見る目か

 魯の朝廷で大夫たちが語りあったおり、叔孫武叔が、
 「子貢は仲尼より人物が上だ」
 と言った。
 子服景伯が、子貢にこれを伝えると、子貢は、
 「なるほど、わたしと先生の比較ですね。これを屋敷にたとえてみれば納得がいきます。わたしのまわりの塀は、せいぜい肩の高さです。家のつくりが外から丸見えになるのでしょう。先生のほうは、たとえていえば、宮殿づくりです。まわりの塀は数仞の高さがあります。門を通って塀の中まで入らなくては、宗廟の荘重さ、居並ぶ百官の威風など、とてもうかがい知ることはできません。ところが、そこにはいる門がどこにあるか、それを見つけるのでさえ容易ではありません。だからそういう批評があったとしても、無理からぬことです」

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 仲尼とは孔子の事である。叔孫武叔という人物が、孔子の弟子にあたる子貢の方が優れていると評価している事を耳にした本人が説明をする場面だ。
 自分の力量は先生と比べると大したことが無いから誰でも簡単に評価できるものである。先生と凄さは見ただけで分かるものではなく、理解のとっかかりさえも簡単に分かるものではないと評価している。

 人の価値は年収とか役職のようなわかりやすい物だけで決まるわけではない。役職の本質は個人が組織がとして活動する為の役割分担でしかない。勿論、かかる責任や影響力は大きくなり、こなしていくにはそれ相応の技術が求められる。だが、その役職がその人の価値を決定づけるものではない。
 あえていうなら勤勉さや誠実が良い組織には求められるのであり、立場がそれを保証するものではない。

 年収というのもそれだけが人の価値を決める判断材料として扱うのは危険である。何を相手にするか、どれくらいの人数を相手にするかという影響を受けるからだ。その人が何をしているのかという事の重要性が直結しているわけではないからだ。

 しかし、数字や役職、学歴というのは非常に分かりやすいのでそれらを指標にして人を判断してしまう人がいる。
 また、自分の価値を他人との数字の比較で実感している人もいるだろう。
性格や理解の仕方が困難にしている気がする。大変なものだ。

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