論語 子張6 学びと信じる事

 子夏がいった。
 「博く学んで、志を篤く持ち、自分に誠実なことを師友に問い、自分の身にひきつけて考えるならば、<仁>の徳はそうした姿勢のうちに自ずから生まれるものだ。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 それぞれについて必要なことが違っている。

 学ぶためには本が今でも有効であると私は考える。理由はいくつかあるが一つだけ紹介する。ネットでいろいろな情報が手に入る世の中だが、同時に発信者も多くなっている。どんな人が発信しているのかが分からないのである。嘘つきなのか、勘違いなのか、根拠が浅いのか。それを判断するためには何が書いてあるか以外から判断するしかない。
 本に書いてあるから本当の事という訳ではないが、誰が、いつ、どの会社から書いたのかを一発で知ることが出来る。
 また、出版社にとっては出している本が信頼の証だ。個人だけではなく組織として信頼が増えると考えることが出来る。
 勿論、ネットの情報がすべて悪いという訳ではない。中には有益な真実を書いている場合もあるが、それを第三者が信頼するのは難しい。

 よって私の書いている事も鵜呑みにしないでいただきたい。悪魔でも個人の感想の域を出ない。その中から何かを参考にしていただけたらと思う。読み手依存である。

 さて、話に戻る。志は自分の好奇心や問題意識である。自分の内側にあるエネルギーを持っていなければ行動出来ないだろう。

 師友が必要なのは、自分の考えだけで進んでしまうと歪んでいる事に気が付かないからだ。それを訂正してくれるのである。先駆者がいると
同じ失敗をしなくて済む。また、目指す形があると何をしたらよいのかが想像しやすい。人によってはエネルギーを貰えるかもしれない。実際に動いている人がいると自分だけではないという心強さがある。
 
 人が動く時は出来事だけではなく人に惹かれてという事もある。例えば職業を選ぶときに、お世話になった教師や医者等その職業ではなく、その職業についていた人物に惹かれて目指すという事だ。

 最終的には自分の頭で考えるという事だ。人の言う事だけを聞いているなら、結局のところ言う事を聞くのが上手いだけになる。 疑問を見つけて解消する時、その疑問は既に世の中が解決した問題ではないかもしれない。そうなると、聞くのが上手いだけでは対応することは不可能である。
 そもそも同じ状況などあり得ない。微妙な加減するのも自分である。

 だがこれらの事は有効な一連の手段の流れであり、徳が身につくかどうかは疑問である。悪い独裁者の書かれた本を使い悪い独裁者の元で悪い独裁者の理想を良いと信じてしまうならどうしようもない。
 つまるところ、子夏の話には何を持って良しとするのかという視点が欠けている。

 まぁ、論語はメモ書きみたいな項目もあり、一部だけを見て批判することに意味はないかもしれないが。

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