論語 子張5 薬を飲ませて解決したことにする恐ろしさ

 子夏がいった。
 「毎日、自分の知らなかったことを新たに知るようにし、毎月、自分が覚えていること、できていることを復習して忘れないようにする。これなら学を好むといえる。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 最近学習に関して考える事がある。それは公共性と個人の問題だ。

 学習の公共性とは公立の学校の話になる。広く多くの人に一定の学習や勉強を提供するという事と個人の学習の定着度や興味関心について考えがまとまらない。

 それは学習や教育という話の範囲の広さとその相互関係の複雑さが影響している。学習の種類一つにとっても、国語や算数のような学校で教わる教科や、それ以外の例えば、電車の名前を覚える事、体の使い方、集団生活の中での経験、不都合や不条理との折り合いのつけ方等、いろいろな要素がある。

 最近よく聞く不登校に関して調べていると知れば知る程、社会的な問題と結びついていると感じている。家庭における信頼関係の欠如や責任者の不在、学校との連携や学習の意義、個人の学力の低下等である。そして不登校問題の関心が、個人の学力の低下や居場所にのみスポットライトが当たっている現状が危機的だと感じる。

 なぜ不安や不満を感じている子が増えているのか、なぜ長期化してしまうのか、なぜ不登校の問題のほとんどは母親が対応しているのか、そもそもの学習の意義とは何か、学校の役割とは何か、家庭の役割とは何か。疑問は尽きない。

 子どもだけにフォーカスを当てて学力や居場所だけを取り上げる事はこれらの問題を無視していると感じざるを得ない。学力を身につける事や安心できる居場所の確保は対処療法的であると言わざるを得ない。

 勿論、解決には受け皿となる施設やフリースクールの存在が必要不可欠であるのは間違いない。私自身も、不登校や引きこもりの当事者個人の頑張りや努力を無視することは出来ないと感じている。

 だからといってこれらの問題を無視してその場その場の対応になる事、個人にだけ責任を押し付ける形になるのは良くないとも感じている。
 家庭や学校のあり方、社会の在り方が、個人の学力ややる気という話で完結させられることに危機を感じている。

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