論語 子張16 なめられているか、厳しいだけか、親しさがあるか

 子張はじつに堂々としているが、手をたずさえて仁を実践するのはむずかしい。(曽子)

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 君子は知識があっても堅苦しさがないという。知識だけではなく、何かに秀でた人は近寄りがたい印象を持たれがちだ。仕事を早く大量にこなす人は尊敬したり憧れたりする反面、一緒にいるとどこか息苦しくなってしまわないだろうか。
 また、実際にアドバイスを受けると自分にはハードルが高い。分かっているけど出来ない事を自覚する羽目になり、そして実際にやっている人を目の当たりにして、過剰に負い目を感じてしまう事がある。

 子張もまたそういった人物のようだ。少なくとも曽子はそのように判断している。

 子張にも弟子がいたと思うが、彼の元に集まってくるのは向上心が高い人が多いのだろう。理想を現実にするには、その理想の形にもよるが高い目標設定と現実の困難さを克服することが求められる。
 だが、結局やる事とは今で出来る事を少しづつ重ねていく事に他ならない。それそれの形は違えどやる事には変わりがない。

 その時に自分基準ではなく他者の基準で判断してしまうと苦しくなりがちである。例えば、三食食べるとか、朝に布団をたたむとか。皆は出来ているのに自分はそんな事も出来ていないと責めてしまいがちであるが、人によって何が得意か不得意化は変わる。今自分に必要な事と出来る事を分けて、少しづつ実践していくのが現実的だ。

 話はだいぶずれてしまったが、いろいろと実践している人でも物腰が柔らかく穏やかな人は存在する。
 それは柔和な表情とか余裕のある立ち振る舞いによってその人自身から感じるものだ。その為には心に余裕を持っていないと難しいだろう。心に余裕を持つ為には、相手に寛容でありつつも、善悪の判断をしなければいけない。その為には自分のわがままではなく、道徳をもって善悪を毅然とした態度で示していく必要があるのだろう。

 この部分は人によっては時に矛盾とみられるかもしれない。難しい問題である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?