論語 顔淵5 言い訳でも前に進めば構わない。

 司馬牛がふさぎこんで言った。「世の中の人は兄弟と楽しくつき合っている。なのに私は兄弟と楽しくつき合えていない」。
 兄弟子の子夏は言った。「商(子夏のこと)は、こういう事を聞いている。『人が生まれ、死ぬことは運命である。富や地位は天からの預かり物だ』と。君子が自分を慎んで落ち度をなくし、人との付き合いをていねいに行い、礼を守っていけば、世の中の人は皆兄弟のようなものとなる。君子ならば、兄弟がいないことや、兄弟と楽しくつき合えないことを嘆く必要はない」。

野中根太郎(訳)(2016)『全文完全対照版 論語コンプリート』 誠文堂新光社

 生きるも死ぬのも持つ者も持たざる者も天命であり、自身の力ではどうしようもないこともあるので君子を目指していけば、悩むことも無くなるということだろう。

 勿論自分で行動をするのは大切である。生活習慣を整えたり、努力をすることは必要不可欠である。しかし同じだけのことをしても他人と比べるならどうしても埋まらない差ができるのは当然であり、その差に対しての反応もまた違うのである。それすら時代によって左右される。

 結局私からすると行動の後押しでしかないと予想している。何でもかんでも天命、運のせいにしてしまうなら自分で手に入れられるものも手に入れられなくなってしまう。何かを手に入れようと目標を立てるのは良いし、その為に合理的な手段をとることも当然である。しかしながら全てが約束されているかというとそうではない。現象を都合よく分まとめているに過ぎない。

 例えば買い物に行くとして。お金を持つ、お店に行く、商品を買う。というプロセスを踏むだろう。
 だが、それぞれの工程に関しても、お金をどのくらいとか、どんな形でとか、どんな手段で行くのかとか、売り切れていたりするとか、さまざまな要素があるはずだ。ここまでは特別に意識しない人もいるだろう。
 そしてそれらを現状の最小単位まで、細かく見ていくと限界が来るはずである。分からない分野が出てくる。
 自分の力ではどうしようもない世界や要素が生まれたり、そもそも全てを理解することが不可能である。
 
 つまりはどんなに理屈で説明ができてもそれらをまとめて把握しているのである。

 理解できない、納得できない、認識できないものを一部まとめるのが天命、運なのである。そういった事は運のせいにして、自分でやれることをやる。その道筋を示すのが君子というものなのではないか。

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