論語 子張17 他人の感情と他人を勘定

 先生はこう言っておられた。無意識のうちに力を出しつくすということは、人間めったにあるものではない。ただ、親の死を慎む情だけはべつだ、と。(曽子)

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 誰でも、親が死んだ時の悲しみは湧いて出て来るということだろう。先生というのはおそらく孔子の事だろうが、親の死を嘆く事を孔子は力を出しつくす、という表現をしている。
 
 親が死んで悲しんでいる状態と全力を発揮しているという状態を繋げているのは一見意味が分からない。

 孔子は相手を思いやる気持ち、父兄や上司を敬う上下関係を重んじている。現代の価値観とは相性が悪いものかもしれない。
 気持ちを前面に押し出した話は具体性が欠ける場合が多く、自分の主張ではなく、誰かの主張が取り上げられ一方的な物となってしまう。そういった理由から嫌悪されてしまうがちだが、気持ちが大切というのは変わらない。

 何事も形式的なものだけになってしまうと、その存在価値が無くなってしまう。なぜなら単純にすべての事は面倒事になり下がるからだ。

 また上の人を敬うのも重要であると私は考えている。科学技術の進歩による自由化、パワハラ、毒親、老害等の言葉によってこれまた良くない印象を持っている人は多いと予想できる。確かに無条件で相手を肯定する必要はない。わがままの免罪符として使われる事に賛同はしない。

 上の者には、孔子の言葉を借りるなら君子としての振る舞いや仁があるていど求められるのは言うまでもない。その前提があるからこそ人は経験者を敬うことが出来る。

 現代のような、世襲制のように生き方が何かの形にはまっている世の中でないなら、自分で生き方や技術の師匠となる人物を見つける必要が出て来る。

 行き過ぎた個人化の落とし穴とはわがままを否定することが出来なくなる事だ。個人の中に他者や見ず知らずの人を敬う気持ちがなければ、テロ行為を防ぐ事は出来ない。法律での概念で否定はできるが、そんなの気にしないと本人に言われてしまえばお終いである。そもそも、犯罪者を牢獄に入れたり、死刑にするのが目的ではないはずだ。わがままをどのように解消して、被害をなくすことが出来るのかを考えなけばいけない。
 そのためには、縦の関係や横の関係が重要になってくる。他人の存在を自分の勘定に入れることが出来てはじめて社会性が構成されるのではないか。

 そして金銭的な損得勘定だけになってしまわないように、感情が必要という事ではないか。

 その一番身近なもの親の死に向けられる情なのだろう。これに関しては多くの人間が出来ていると孔子は言っているようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?