論語 子張11 しっかり歩いて戻ってしまう差が、本当の一歩

 子夏がいった。忠信考悌のような<大徳>については、決まりを外れないように。日常の振る舞い方のような<小徳>については、多少ゆるくてもいい。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 忠信とはまごころを尽くし人を欺かない事であり、孝悌とは父母や目上の人にしっかり仕える事である。

 日常の振る舞いに関しては、全てをきちっとこなそうと意識すると息苦しくなってしまうだろう。一つ一つのやらなければいけない事はあまりにも多く、また終わりがない。新しく何か一つ習慣にするだけでもたいへんな労力を要するものである。向き不向きもある。

 決めた予定通りに全てをこなすのではなく、多少の余裕をもって行ったほうが長続きする。余裕を持つとは、何をいつするのかという目標設定もそうだが、出来なかったときに自分を責めるのではなく、「まぁ、次やるか」と進めていく事だ。

 もしかしたら、自分にはまだ難しい事だと自覚する必要があるのかもしれない。例えば風呂掃除や布団をたたむとかそんな些細なことでも、自分の意思で継続するのはコツがいる。

 物事がなぜ面倒と感じるのかについて、一つの理由としては必要であり出来る事である、それでいて明確に定められた期限がないのにやろうとすると
今でなくてもいいと判断して面倒だと感じてしまうのではないか。

 人はすぐに変わる事は出来ない。無理に行動だけを変えようとしても限界をすぐに迎えてしまう。だが、今より一歩前に進むくらいなら可能である。その一歩を確実にこなしていく事であり、その一歩を他人と比較しない事だ。出来ないのが相手か自分かで、簡単にけなしてしまうし自己嫌悪に陥る。そもそも過去の自分と比較しなければ、存在が違う生き物なのであまり意味がない。

 そして、出来たと思ってもすぐに元に戻ってしまうものである。三歩進んで二歩下がるとはよくいったものだ。元に戻ったと思っても、無意味だなと思っても、完全に元に戻ったわけではないはずである。この辺は実際に行動して一歩の歩みの遅さと力強さを感じるしかない。

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