論語 子張9 見て良い人、会って良い人、聞いて良い人

 子夏がいった。
 「君子は、接する仕方によって三つの姿に変化して見える。はなれて見ると威厳があり、近くで接して見ると温和であり、その言葉を聞くときびしい。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 面白い着眼点である。人は実際に会った姿が全てではなく、物理的、心理的距離感から影響を受けるというものだ。そして本人直接ではなく、例えば書いた本からも違った印象を受けるという事だ。

 特に現代では実際に会う事はなくとも情報にアクセス出来る手段が増えている。その中で受ける印象だけで本人を判断してしまいがちである。しかしこの場合は離れて見るもしくは言葉で見るのどちらかでしか見ていないという事だ。
 そもそも情報に関しては、注目される一部の発言を切り抜かれ、意図が正しく伝わらない形が「その人の発言」として普及する事がある。そう考えると、誰がその発言をしたのかという事も大事であり、どんな意図でどんな編集をしたのかというのも、読むのに必要な情報といえる。
 それがはっきりしなければどんな情報も良いか悪いかすら判断することが出来ない。

 さて、身の回りに厳しい人はいるだろうか。それがただ不機嫌なだけなのか、適材適所で使い分けおり、世間話のような話をしてみると温和だろうか。また、実際に会ったことはないが、怖い印象を持っている人はいるだろうか。それがその人の全てではなく、君子としての一面なのかもしれない。

 君子としての教訓もそうだが、自分が感じているその人物への印象は悪魔で一部分でしかないという事だ。実際に会って話をすると、素晴らしい人かもしれない。簡単に判断するのは間違いである。

 逆の言い方をすれば、印象が良い人が性格が良いとは限らないという事だ。アイドルも本人の性格が良いとは限らない。愛嬌の良さはお仕事の延長であり、お金を払っている間だけ手に入れられるものかもしれない。
 さらには詐欺師のような人はあった瞬間から、意図的に良い印象を持たせようとして来る。

 つい先ほど、実際に会って話をすると素晴らしい人かもしれないと書いたが、事はそんなに単純ではないという事を忘れないでいただきたい。

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