郷
作品名:郷
制作年:2022
龍はとても曖昧な存在である。その姿かたちは誰もが知っていながら、誰ひとりとしてはっきり捉えたものはおらず、また捕らえたという話も聞かない。数多の文献や画に登場しながら、詳しいことはなにひとつとしてわかっておらず、また特定の人の前に顕現した際も自らについて一切語ることはないとされる。人を導くことを選んだのだから当然なのかもしれないが、いったい龍とはどういう存在なのだろう。
時に神と祀られ、時に敵として斃され、文化や時代の違いはあれど人の生活、営み、歴史の中に必ず存在しているこの龍とは、いったい何者なのだろうか。この問いに対する答えは、この画が描かれるその瞬間に現れている。
光彩陸離とした和紙の上に、玄妙な一筆が走ったのがこの龍のはじめである。これをもとにやがて龍となったわけだが、実ははじめのこの墨跡こそ龍の正体であり、和紙の上に描かれたまさにその瞬間に、人は龍とつながったのである。
描いた本人がではない。
人と龍という存在同士が、和紙と筆と墨を通じて調和したのである。
なぜなら筆が揮われる寸前までは、ただ和紙があり、筆があり、墨があり、そして人がいただけだからである。しかし、ひとたび揮われたその瞬間に龍は和紙の上に顕現し、そこではじめて人の世界と龍の世界とがつながったのだ。正確にはもともとつながっていたものが顕在したというべきであろう。閉ざしていた扉を開いたというのはやや詩的すぎるかもしれないが、そう表現したほうがわかりやすいほどに、実に魅力的な瞬間なのである。
遠いむかし、人と龍とはひとつの時とひとつの空とを共にしていた。それぞれの務めを果たし、それぞれの思いに従って行動しても、倫を外すこともなければ互いを寇することもなかった。いついかなる時も、両者は常に寄り添い調和していたのである。
けれどもいつしか人は不安に溺れ、堕ち込み、龍の許から離れていってしまった。その際できた距離こそが間であり、今日の時間と空間とは龍と人との分離によって生まれた懸隔である。
こうして人は【人間】になったのである。
両者の距離は不調和をもたらし、しだいに人間はその中で踠き苦しむことになってしまった。不調和の中にいたのは龍も同じであるが、しかし彼らが苦しみを味わうことはなかった。なぜなら苦しみや痛みは常に自然な自己への抵抗から来るものだからである。彼らにとって不調和とは、調和を再び経験するための機会であり、挑むに値する情熱的な出来事であったのだ。
その際龍が選んだ方法は、人間自らが自分の許へ戻ってくるよう導くことであった。こうして彼らは陰に陽に助言をささめき、時に雄大なその姿を見せながら、人が自身で拵えた間をふたたび自身で縮め、人間から人へと戻るための手助けをするようになったのである。
畢竟、龍とは人の片割れ。
否、我々自身の姿なのだ。
源龍図にも同名の作品が存在している。そこには我々の還りを待っている龍が描かれていたそうである。人であり、また龍であったことを思い出す時が、いま来たのだ。
委ねる芸術家