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命龍

作品名:めいろん
制作年:2021年

龍神、源渦より顕れる。人もまたこれの如し。みな尊き命ならんや。

 香川県高松市にある田村神社の境内に、龍神の像がある。御祭神が龍神の姿となってけんげんしたとの話が伝わっており、摂社しゃの前に鎮座している。この龍画ははじめその像をモデルに描かれていた。だが次第に神さびていき、やがて神気渦巻く新たなりんかくを伴って芸術家の、そして我々の前に顕現したのである。
 龍の姿はいちではない。同じ龍を見ていても、向き合う人によってその捉え方、受けとり方は千差万別である。そもそも長いたいたけだけしいそうぼうも、我々の文化圏でそう捉えているに過ぎない。西洋においては翼を持つものが多く存在し、虹そのものが龍であると伝える文化も少なくない。どこにどんな龍をようがそれは自由であり、それだけ真実が存在する。
 かようにして龍はあらゆる姿を持ち、それ故に一切の姿を持たない存在なのである。いわば【氣】そのものといえよう。その氣を感じ、なにがしかの姿かたちを捉えたとき、我々の世界で龍として産まれるのである。
 それはこの世界において新しい命が誕生した瞬間である。

胎児を観るか、龍が映るか。あるいはその両方か。
世界の真実は人の数だけ存在する。

 生きている以上、すべての存在に命がある。途方もない時間を経ていまこの瞬間まで連綿と続いている命が、我々ひとりひとりにある。どこにあるかと問われて答えられる人はいないが、命がないとはっきり口にする人もいない。姿かたちはなくとも、みな等しく命がある。命という点においてはみな同じ存在であり、その姿は人の数だけ存在する。当然、一意ではない。
 龍と同じである。龍においての氣が人にとっての命であり、氣も命も同じ原始的存在である。それをみなもとと呼び、龍や人をはじめこの世界の――否、この宇宙のありとあらゆる存在はすべてこの源より産まれ、またそれ故に、宇宙のすべては源そのものなのである。森羅万象が産まれ出ずる場所としての源を、本芸術家はやわらかな渦でたびたび表現している。

つがいになった赤渦のふたつを、青い渦龍がつないでいる。
拡大するような勢いのうちに、吸い込まれそうな力が感じられる。
相反する極地の共時性は源のひとつのすがたである。

 讃岐さぬきの地はもともと雨が少なく、降ったとしても海へと流れやすい地形のために生活用水の確保が常に問題だった。しかし現在の田村神社のあたりは地下水が比較的豊富で、稲作の中心でもあったようである。そこに住む人々の水に対する感謝の気持ちが現在の田村神社へとつながっている。実際境内の奥殿の下には古井戸があり、そこが信仰のはじめであったと伝えられる。
 当時の人々にとってその井戸は命の源泉であった。龍神は水神であり、上述した伝説からも【人―命―源ー氣ー龍】というひと続きのえにしが見える。その縁は直線ではなく渦であり、我々と龍とをつなぎ、また両者が同じ存在であることを示すひとつのシンボルである。本作品は田村神社の伝説を物語るものであると同時に、人と龍との歴史をも映し出した貴重な画である。なお本作品は芸術家にとって初の墨絵の龍画である。その後の活躍をかんがみるに、この龍をはじめに描くことはもはや運命であったといえよう。

 源龍図には該当するような画は見当たらないが、それは伝え残っている作品すべてが該当するということと同じであろう。原題の六極源龍図譜の源とは魂の『みなもと』とされており、描かれた龍も描いた人も同じ源であるならば、なるほどひとつに定める必要はない。
 画集でありながら作品のすべてが散逸してしまったという経緯も、案外この時代にこうして描かれるために起こされた必然的な出来事だったのかもしれない。必然は必然であるがゆえに、人の目には神秘に映る。ただありのままに受け入れれば神秘の霧もしゅにして晴れ、すべてが必然の中で動いていることを人は知るのである。そのとき我々は龍をいかなる様相で捉えるか。
 これから先の世界は、愉しみと幸せに充ち満ちている。

100年後の龍はいかなる姿か……


委ねる芸術家


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