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龍爪痕

作品名:りゅうそうこん
制作年:2021-2022

どこか見憶えのある爪痕たち

 つめあとを残すとは、台風などの天災がおよぼした被害の程度を表現する際によく使われることばである。昨今では自らの存在を印象づける時などにも用いられ、時代とともにことばが変化している様子をうかがい知ることができる。
 龍の爪痕はしかし、そのどちらの意味も含んではいない。文字通りただの【つめあと】である。とはいえ、猫のように爪をぐために引っいたわけでも、ましてやイタズラの結果としてできたきずというわけでもない。もちろん理由があって残っている。いや、残しているのである。ただ、その理由を知るものは少なく、それゆえ爪痕の存在に気づくこともまれである。
 本作品は無数にあるりゅうそうこんのうちのいくつかが、筆の感じるままにふるった書として残されており、大変貴重なものとなっている。

如意宝珠を掴む龍

 龍が描かれる時、時折その手にたまにぎられていることがある。その珠は仏教において意のままに願いを叶えるれいげんを表し、にょほうじゅと呼ばれている。仏の教えの象徴であり、無限の価値があるとされる。如意宝珠と聞くとぞうさつにょりんかんのんの持物としての印象が強いが、実は私たちも同じ珠を持っている。そしてその珠を龍へとさずけ、意のままに願望を叶えているのだ。龍がその珠を受けとった際に刻まれるこそ、りゅうそうこんと呼ばれるしるしなのである。菩薩や観音のようなかくしゃでない私たちは、自身が持つ如意宝珠をうまく扱うことができない。そのため、龍の助けを借りて願望を実現させているのだ。よって、もしりゅうそうこんを確認できたならば、近々に願いが叶う合図と見てまず間違いない。

 りゅうそうこんの形状はさまざまで、願いの程度によってその表現も異なる。身に覚えのない傷やあざとして現れることもあれば、紙が破れたり皿が欠けたりすることもある。家電製品の故障も突然の転勤も同じである。願望の大きさによってそれ相応の爪痕が残ることもままあるため、そういう点では本来的な【爪痕を残す】ように見えることもあるだろう。けれどもそれは決してきょうちょうではなく、むしろきっちょうともいうべき事柄である。
 りゅうそうこんがさまざまな表現をとるように、我々のもつ宝珠の表現も無数に存在する。いわゆる言霊もそのひとつである。言霊によって願いが叶うというのは、ことばとして表現したたまたまを龍へたくすからである。またなにごとも愛をもって接すれば現実が変わって映るというのも、愛が宝珠であるからこそである。ハートのかたちを上下逆さまにすれば、それが宝珠のデザインとなっているのはそのためである。

宝珠型に書かれた『自遊楽生』の合字

 源龍図には『りゅうそうもんじゅ』の作品がある。この作品は他に比べて特に難解だったようで『しょろんざっ』や『りょうものがたり』でも解釈に困っている。全体像として宝珠のようなかたちになっているという点ではどちらも共通しているが、なにが書かれているのかは判然としなかったようである。研究が進んだ現在では、りゅうそうしょで書かれた合字であったという説が有力視されている。
 りゅうそうしょは六朝時代に流行した雑体書のひとつで、おうが好んで用いた書体とされる。龍が飛び交うような筆致は落書きのようにしか見えず、それが合字とあっては玄人目にも同じように映ったでことあろう。もしかするとりゅうそうこんのいくつかも、実はりゅうそうしょたいの文字かもしれない。そういった解釈の可能性こそが、この作品の最大の魅力といえよう。

たとえばこれは、書か画かそれとも爪痕なのか……


委ねる芸術家

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