![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/88204221/rectangle_large_type_2_15d563dbc48f52e56110e559fd3c17a7.png?width=1200)
龍尋
作品名:龍尋
制作年:2021
![](https://assets.st-note.com/img/1661000424669-pHOp7OPM43.jpg?width=1200)
人生は選択の連続である。いつ起きるのかも、なにを着ていくのかも、どちらの道を行くのかも、いま瞬きをするのかしないのかさえ常に選んで生きている。それが意識的であれ無意識的であれ、人は一日に何百回あるいは何千回という単位で常に選択し続けている。選択しないことはない。意図して選ばずとも、その選ばないという選択肢を選んでいるのだ。
選択の基準はいつも曖昧だ。時と場合に応じて利害関係や損得勘定、経験値や価値観で選択をしている。これらは基準でなくて理由に過ぎない。いいわけといってもいい。それ自体を責めることはしないが、自らにこう質問してみてほしい。『ただこうしたいから』『好きだから』『おもしろそうだから』といった、こころから湧き上がる情熱のようなものに従って選んだことがはたして何回あっただろうか、と。もっと簡潔に換言すれば、本心から選んだ経験は今日一日何回あっただろうか。
人は本心によって生きる存在であり、龍はそのサポートをする役目を担っている。直接導くようなことはせず、必要な時に必要なヒントを与え、選択の自由を増やすことが主な仕事である。そのためいつもそばにいて、私たちの一挙手一投足を見つめている。選択次第ではサポートする内容が変わるからだ。だから、何百回という私たちの選択に目を光らせている。そして私たちが何かを選ぼうとするたびに、こう尋ねているのだ。
『それは本心から選んだことか?』
源龍図には『りゆう』と題された画があることが確認されている。当初は『りゅう』の字を誤ったものと考えられていたが、源龍図の研究が進むにつれ画のとなりに小さく【龍問真假】の四字が記されていたことが明らかになり、これを根拠に今日では『りゆう』が正題であるとしている。假は仮の旧字で”いつわり”の意。ここでは本心ではないすべてのことを指している。本心かそうでないのか。それが龍の問いだ。
委ねる芸術家