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東京都美術館・田中一村展

タイトルの絵は夕方、海岸までお散歩に出て見た夕景の中のサーファー。
セールの鮮やかな赤が印象的で、美しい光景だった。

温度は夏日と言われるが吹く風に秋を感じる1日、かねて見たいと思っていた「田中一村展」に出かける。
会期は12月1日までと、まだ日にちに余裕はあったが、会期半ばの今頃は空いているのではないかと目算を立てた。

ところが会場に着いてみると入り口には行列ができている。
「えっ!田中一村ってそんなに人気があったの!」
と、意表をつかれた思いが走る。

図録とチケット

一村といえば私の中では奄美大島時代の絵の印象が強い。その印象は
日本画というよりも油絵?と思わせるものだ。
今は日本画の世界と西洋画の世界は、限りなく近づいていて、使われる画材の違いを見なければ、どちらか判断できないような作品も多い。

今回、展覧会を訪れ、田中一村の生い立ちや経歴を知り、改めて
絵への執念、執着を見る思いだった。

彫刻家の父親の元に生まれ、すでに少年時代から才覚を現し、
米邨の名で作品を発表している。
8歳から12歳ごろの作品も何点か展示されており、言われなければ、とても子供の作品とは思えない。

8歳 米邨とある。(図録より)
12歳の作品(図録より)
18歳の作品 縦の長さ250cm(南画に学ぶ)

20歳に至る頃には多くの賛助会員を得て画会(頒布会)を開いている。
父親のプロデュースもあり、充実した作家生活の下、南画や文人画などを
よく成し、清終明初の八大山人などの絵を学び、多くの作品を残している。

東京美術学校にも現役で合格するが、入学してまもなく退学してしまう。
理由ははっきりしないらしいが、(一説には父の病気により生活が困窮したとも言われる)その頃、父、母、兄2人を相次いで亡くし、親戚を頼って、祖母、姉妹とともに千葉に移り住む。

千葉に移り住んで後は、生活のこともあり、作品を多く売ったり、世話に
なった人に渡したり、依頼を受けた作品を描いたり、(節句絵など)
はたまた服飾品に至るまで制作する。それらが多く残ったことから、今でも新しい作品が次々と発見されているようだ。

一村を支援する多くの人に支えられ、各地を旅して絵を描き、襖絵や屏風絵など、石川県では仏殿の天井画なども手掛け、経験を積みながら研鑽に勤しんだ。

一時は川端龍子に認められ、「青龍社」に入り作品を発表するが、やがて
川端龍子と意見を異にして、この会を離れる。

この頃は襖絵など多く手がける「何て美しい!」

やがて50歳を機に奄美大島に移り住み、沖縄の植物や生き物をテーマに絵を描くが、困窮を極め、絵の具代を捻出するために大島紬の工場で働き、絵の具代が貯まると絵を手がけるという生活をした。

昭和52年(1977年)9月、69歳でその生涯を閉じるまで、無名の画家と
して一人沖縄の畑の中の小さな一軒家で一途にその画業を成した。

檳榔樹の森にアサギマダラ蝶

檳榔樹は好んで描いたモチーフの一つで、墨絵のように色を控えた作品も
あり、美しい。

チケットや図録の表紙となった「アダンの海辺」(1969年)は一村畢生の絵とされ、彼自身、「閻魔大王への土産だ」と書簡に記し、何の悔いもない
制作を成し得た満足感で、落款を記す必要もなかったのだろうと言われる。
のちに知人にこれを譲る時、添え状に制作年や、足元の砂礫や雲の表現に
注目を促す言葉があったという。

画家として「何の悔いもない」と記すことができる作品を残せたという
思い、その思いを持って人生を全うできたのは、幸せな人生だったと言えるのだろう。

それにしてもその膨大な作品量(木彫、和服、帯、日傘などの展示もあった)のエネルギーには圧倒された。
日本画と水彩画の共通点に目が行き、作品から目が離せなかった感動から、
売店で図録も手に入れ、会場を後にした。

残念なのは、帰宅して図録を広げてみた時、やはり実物に勝るものはなく、
図録からのあの迫力は感じられなかったことだ。



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