アダム・スミスから習近平まで
アダム・スミスから習近平まで
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」206/通算637 2023(令和5)/8/8/火】台風がチンタラやってきた。急な土砂降りと猛暑が入れ代わり立ち代わり、窓を開けたり閉めたり。植木と雀は嬉しそう。小生は夜も土砂降りを警戒してクーラーをつけて寝たら体調が悪くなり、体温37℃。ナースのカミサンは俄然元気になりいろいろ薬を出してくれたので今朝は元気になった。伴侶はナースがお勧めだ。亭主には厳しいが「患者」には優しいのである。ビョーキの振りをする・・・使えそうな手だな。
今年はアダム・スミス生誕300年だという。イベントをやるから見に来い、と息子の母校、東京経済大学から連絡があったが、小生は「経済学者で、後継者にはケインズなどがいる」くらいしか知らないのでグズグズしていたら電波が走ってきて曰く「無知は仕方がないが、無知を自覚していながら学ばないのは怠惰である」。うーん、正論だな。スミス、キミは何者か? 河野健二編「世界の名著」によると――
<「17歳のスミスを乗せた馬がスコットランドからイングランドへ入ると、野は良く耕されており、都市には人口多く、牛は良く太っているのが目に付いた。それは新興イギリスの美しい姿であった。スミスは且つ驚き、且つ胸を躍らせて宏壮なるオックスフォードの門をくぐった」(大内兵衛)
スミスは1723年、スコットランドの小さな街に生まれた。14歳でスコットランド・グラスゴーのカレッジを経てイングランド東部のオックスフォード大学へ。そこで初めて食べたビフテキは美味かった。彼は感心した。「これは農業生産力の高さを示すものだ!」>
小生なら「どうやれば美味いビフテキができるのか、やはり筋を叩いて、あまり焼かないことだな」とかで終わってしまうが、デキル人は違うものだ。観察眼、好奇心、知性、氏素性(父親は税関吏)が揃っていないと大学者にはなれないよう。
スミスは1751年にグラスゴー大学教授になり、倫理学、哲学などを教えていた。第一線を引いて2年ほどのフランス遊学後、母の待つ故郷のスコットランドに戻り、名著「諸国民の富」(原題:諸国民の富の性質と原因についての研究、「国富論」とも)を10年ほどかけて書き上げ、1776年に刊行。同年は宗主国の英国から植民地の米国が独立した年だ。1776年は歴史の転換点と言えるかもしれない。
日本は安永5年、徳川幕藩体制下、田沼意次の時代。「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」、田沼は毀誉褒貶の宰相だが、オランダと清国との「長崎貿易」を通じて「諸国民の富」や「米国独立」などの情報を得ていたのではないか。長崎貿易では永らく金銀の輸出がメインだったが、干した海産物(俵物)を輸出するようになったというし、北海道開拓やロシアとの貿易も検討していたようだ。
田沼の失脚で中断されたが、歴史にイフ(If)はないものの「もし商業重視政策や対外開放政策を続けていたら、我が国は欧米列強と時を同じくして産業革命を達成し、もっと早く資本主義国家になっていたかもしれない」(「河合敦の日本史の新常識」)。日本らしさ、日本文化が亡くなってしまうから小生は賛同しないが・・・外交は制限しないと移民だらけになり現在のように問題が増えるだけではないか。閑話休題。
アダム・スミスについてコトバンクで調べたら「富の源泉を労働に求め、『見えざる手』による予定調和を唱え、重商主義・重農主義を批判して、上昇期の産業市民階級の自由放任主義的経済思想を理論的に基礎づけた」とだけしかない。小生にはチンプンカンプン。
小生は子供の頃から日経「私の履歴書」を愛読していた影響で、森ビル創業者の森泰吉郎氏が商学部長・教授を務めていた横浜市立大学商学部に潜り込んだのだが、簿記という“初めの一歩”で挫折してしまったので、コトバンクの短い説明では分からない。ネットで探したら編集業の京藤一葉氏による「アダム・スミスとはどんな人?」(レキシル2022/1/27)が分かりやすかった。氏は一橋大学で大学院を含め6年間歴史学を研究したという。以下一部転載。
<アダム・スミスは近代経済学の父と呼ばれており、彼の発表した「国富論」は世界に多大な影響を与えました。今までの経済学の考え方は金銀財宝を富の象徴として捉える「重商主義」が一般的でしたが、スミスは生活必需品や嗜好品など(消費財)が富であるという考えを提唱します。
つまり、16世紀から18世紀にかけては輸出を盛んに行うことで金銀を得ることが国を豊かにすると考えられていましたが、これからは輸入をして生活必需品を増やすことが国民の生活を豊かにする方法だということを発表しました。
スミスが影響を与えた人物は多くいますが、「国富論」を発表してから約100年後に「資本論」を執筆したマルクス、20世紀に「一般理論」を発表したケインズもスミスから影響を受けました。スミスの提唱した論を否定し、社会主義を推したのがマルクス、スミスの考えを修正し洗練させたのがケインズ、というイメージです>(以上)
そう言えば前出の大内兵衛はアカのアジテーターだった。彼の翻訳・解説したマルエン(マルクス&エンゲレス)本で小生はドップリ洗脳されたと言っていい。自己責任だから「俺の青春を返せ!」とは言わないが・・・大内は一種の邪教の教祖のよう。日本人名大辞典から。
<大内兵衛/おおうち-ひょうえ:1888-1980 大正~昭和時代の経済学者。明治21年8月29日生まれ。大蔵省勤務ののち、大正8年東京帝大助教授となるが、翌年森戸事件(無政府主義の宣伝)で辞職。11年復職し、教授としてマルクス主義の立場で財政学を講じた。昭和13年人民戦線事件で検挙。戦後、東京帝大に復帰し、25年法大総長となる。革新勢力の理論的指導者でもあった。昭和55年5月1日死去。91歳。兵庫県出身。東京帝大卒。著作に「財政学大綱」など>
60年安保騒動以降、1965年あたりから新左翼が「全共闘運動=大学改革」として勢力を拡大していったが、実態は共産主義革命を目指していた。早稲田は革マル派の、法政大学は中核派の牙城になり、中核派は「一声2千人」、声を上げれば瞬く間に法大生2000人を動員できる、と自慢していた。大内兵衛が1950年に法大総長になってから法大は教員も学生も急速に赤化していったようで、確か当時、法大生だった「頂門の一針」主宰者の渡部亮次郎氏はうんざりしていたとか。悪貨は良貨を駆逐する、赤化は亮ちゃん(ナベしゃん)を駆逐する・・・
全共闘運動=大学改革を真面目に追求したのは秋田明大率いる日大全共闘だけではなかったか。日大経営者は大学を「カネを儲けるためのビジネス」と心得、学生は搾り取られる一方だったよう。「それはおかしい、是正すべきだ」と抗議した日大全共闘運動は汚濁に咲く一輪の花だった。日大は半世紀経っても相変わらず銭ゲバのようで・・・一度つぶして人心を改めないとダメだろう。
大内兵衛は1963年に「マルクス・エンゲレス小伝」でこう書いている。「マルクスは1883/明治16年に死んだが、今もなお生きている。地球が小さくなるに反して彼の姿はかえって大きくなって、彼の光は月にも届きそうな勢いである。マルクスの教えに従ってソ連ができ、また新しい中国が逞しく成長しているのが何よりの証拠であろう」
1991年のソ連崩壊を見ずに大内兵衛、大内が高く評価していた向坂逸郎もあの世へ逝った。共に一点の濁りもないマルクス教徒だった。アカ、共産主義は正義や科学を装う罪深い邪教だ。ソ連を筆頭にマルクス主義でユートピア=この世の天国を目指した共産圏。ソ連は自壊し、中国は毛沢東死後にトウ小平が資本主義を導入して経済発展を遂げたが、今や習近平は「貧しくても人民が平等で穏かだった毛沢東時代の共産主義経済」に戻ろうとしている。異常だが、毛沢東と並ぶ栄誉を求めているのだろう。
習近平の中共党員は9514万人(2021年)、人口の7%近いが、党員は「いい仕事、楽な仕事、安定した仕事で儲かるから入党した」という人が結構多いのではないか。習近平が毛沢東時代の共産主義経済=国有経済の復興・回帰を進めれば「みんな人民服、みんな清貧暮らし」になりかねない。習近平は中共軍におもねるように軍事予算を拡大しているが、軍は儲かるから習近平に従っているだけで「カネの切れ目が縁の切れ目」、軍によるクーデターのリスクは付きまとう。「習近平の夢」は「人民の悪夢、世界の迷惑」。次回も考えていきたい。
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