宗教二世という博愛的毒親の病
宗教二世という問題が取り上げられて少し経った。宗教に傾倒した親を持つということは多くの有害が出来事が起こる。しかしそれほど熱心な宗教行為を行う親でなくとも、私は宗教の影響を受けた母に苦しめられている。
母の母こと、私の祖母は熱心なキリスト教徒であり、母の父こと私の祖父は炭鉱夫であり、隠れキリシタンの末裔のような境遇を背負っていた。母は私をキリスト教に入信させず、本人も神社に寄り付かないくらいの情はあるが、キリスト教のためにお金を払ったり、キリスト教の勧誘をしたり、教会に行くことはなかった。しかし母の無意識な生き方というのは、私たち家族をどこまでも傷つけていった。
それが母の持つ博愛の精神であった。クリスマスプレゼントが貧しい子供達への施しに使われた話ほど極端ではないが、精神的には常々博愛という名で家庭内での情緒的ネグレクトが横行していた。
博愛精神を美徳とする親というのは、親自身は満遍なく誰にでも優しいと思うかもしれないが、現実には子供にも博愛の精神を持つことを期待し、自分のために何かを欲する行為を否定し、他人の為にあることを強要するのである。そして子供らしい子供を罪人のように扱うのだ。
子供というのは家庭内で安心感や自尊心といったものを育み、それを社会に出ることで磨き形を整えると考えられているようである。親というのは子供を愛し、子供を優先し、子供を特別に扱う前提(これは子供の衣食住を家庭内が保障し、子供が傷ついたら慰めたり、子供をフォローしたりすることであって、何でも物を買うとか、犯罪を金でなかったことにするという意味ではない)で構築されている。そうして精神的に貯まった自己肯定感や自尊心といった言葉で、あらゆる出来事が起きてもある程度の距離をとって物事を観測されるというのが頻繁に見掛ける社会適応という概念であるように見える。
しかし宗教二世というのは、スタート地点が罪人である。愛する誰かに守られるわけでもなく、常に看守のような大きな人間がただ罰することを待つだけになる。こうした監視の中では守られていると言う感覚は当然なく、自尊心や自己肯定感といったものも育まれない。安全基地を持たぬまま社会で傷つくだけの人生になってしまうのだ。
もし誰かが子供を傷つけたとしても、許しの精神を押し付けるばかりで一切のケアをしないのである。私のいじめ後遺症というのは、そうした母による宗教的道徳観という名のガスライティングによって非常に重度の状態に陥ってしまった。私は長い期間いじめに合い続けたが、もっとも加害を行ったのは母だったとさえ思う。母の言葉をきっかけにODをしたことが何度もあった。母は私を病院には連れて行かなかったが、人に迷惑かけて馬鹿じゃないのかと私に言った。私が5年間、同学年からいくら暴言を吐かれ、それから何年と時が過ぎようと記憶に苦しめられていようと、私にとって加害者が迷惑であったり間違ったことをした存在であると1度も母は言わなかった。気にする私が異常な存在のように扱ってきた。そうして母は常に絶えず私が迷惑な存在であるというメッセージを送り続けた。同じようにいじめの被害にあった他の家族も同じ被害を受け、自傷をするのが当たり前になっていった。
親が神を信仰するというのはそうしたリスクを抱えるのだ。子供の子供らしさを許す余白がなくなり、いつの間にか罰する側になることで自分の信仰を証明し、自分という存在の価値を担保するようになる。人を律したり罰することが宗教の在り方になった人間というのは、誰に対しても破壊的なのだ。
私はこれだけ苦しめられてきたが、実際には母が宗教二世であって、私は宗教二世ではない。しかし宗教二世の苦しみというのは、そうした目に見えた貧困や外傷的なトラウマの違いはあれども、情緒的なケアの貧困というものに親側も子供側も気づかぬうちに苦しめられているのではないかと私は思う。
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