人間関係は割に合わない

発達障害に生まれると人間関係に苦労する。
人よりも精神的には人一倍気にかけるのに、それが他の誰かにとっては当たり前のことだったりするのだ。要領が悪く能力がないとただ息をしているだけでも嫌われていく。当然掛けた苦労の割に他の子の方が好かれてしまうわけである。掛けた苦労の割に還元が少ない。精神的に言うなら人間関係すべてに友達代とかデート代とかホスト代みたいに金がかかってるような気分になる。それが私にとって人間関係のすべてに起こるわけである。

これだけ負荷がかかるのは背後で頻繁にフラッシュバッグが起こりやすいことが原因の一旦だろう。失敗が何度も思い出される人生というのは爆弾処理をしているようなものである。他愛のない会話とされることも爆弾処理のような緊張がある。もし失敗して傷ついたら、その傷を一生背負わなくてはならなくなるのだ。私は爆弾処理をこれ以上したくないから誰にも会いたくないのだ。

もう1つ理由があるとするならば世間体を気にする母が原因だろう。母は医師から見ても虐待だと言えるほど、私が普通であることに固執していた。母の代わりに社交的であることを期待されながら、私は学校ではいじめに合って萎縮していった。助けを求めても助けてもらったことは一度もない。母からは私がおかしいと言われ、父からは母に迷惑をかけるなと言われるだけ。母の想像する普通のために、自分のことを好きになりもしない相手に、常に好かれたいと思い続けなくてはならなかった。すべての人間が母からの愛情を奪っているようで憎しみすらあったが、それでもからかってきた人たちの一部が内情を聞いて謝罪してきた時には、母の行動は貴方達のせいではないと返せるような自分も存在していた。私は内心自分を責めもしていた。何もかも普通ができない自分のせいだと。

引っ越しも多く私は人とも場所とも何度も別れを告げた。母の期待する人間像というのは、おそらく生まれてからずっと地元で育ってきていじめにあったこともなく、家族が自分を中心に回ってるように愛されてきた子供なのだろう。母の顔色を伺うように父から言われてきた私とは正反対の子供が良かったのだろう。

そんな痛みを背負っているからこそ、寂しいなんて呑気に言ってる自分の断片には心底腹が立ってくる。この寂しいは1日のわずか数%に過ぎないが、それを発端に怒りを抱えた自分から次々と記憶が溢れて、記憶に何もかもが埋もれていく。そこに今の私なんてありはしない。そうして意識を失っては浮き上がり、また溺れることに怯え、そして溺れていく。毎日がその繰り返しだ。だから人間関係は割に合わないのだ。

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