本を読むのが苦手な人
読書の秋なので読書に関することを書こうと思ったのだけれど、もう秋とは思えない寒さなのは言うまでもないだろう。朝寒すぎるけどベッドから出て一限から大学にいく俺を褒めてくれる彼女を募集しています。冗談はさておき以下略…
本を読むのが苦手という人がいる。
しかし、その中にも「マンガやライトノベルや星新一なら読む」という者もいる。
では、彼らはなぜ同じ文字媒体を区別するのか。一方を敬遠し、また一方を許容するのはなぜなのだろうか。
マンガは基本的に「セリフ」と絵でストーリーが進んで行く。
ライトノベルは多くの場合、地の文が主人公の思考である。
星新一は、文章全体が短いことと、情景描写が「~なのだ!」など作者が読者へと語りかけてくるような表現が多い。
これらに共通するのは、すべて「口語体」である、ということだ。
「口語体」というのは、「はなしことばを基準とした文体の言葉を基として綴った文体」(広辞苑 第六版)のことで、要は我々が日常会話で用いる言葉遣いをそのまま文字にしたものである。
逆に我々、本の虫たちがおすすめし、嫌文家たちが途中で匙を投げてしまうような本の多くは、「文語体」と呼ばれる、「読み書きに用いられることば」(広辞苑 第六版)を用いた書体である。
さて、文章というものは他者へ、或いは未来の自分へ向けて筆者が綴るものである。
そして、この「筆者」というのは「人間」である。
「筆者」の多くは、他の多くの人々と同じように「口語体」を用いて日常生活を送っている。
つまり、思考の根底を支えているのは「口語体」なのだ。
「口語体」の状態で思考を巡らせ、それをインクを通して文章にするとき、「文語体」へと変換するのだ。
そして、本の虫たちは紙面上の「文語体」を見て、読みながらスムーズにそれらを「口語体」に再変換して(もしくは変換すらせずに)、自らの内へ取り込むのである。
しかし、幼い頃からあまり「『文語体』を『口語体』へ変換する作業」を行ってこなかった人たちは、この変換がスムーズに行えず、読んでいる途中で面倒になってその「作業」を放棄してしまうのだ。
確かノルウェーの日本語学校の話だったと思うが、「任侠映画のセリフを丁寧語に直す」という授業を行っているらしい。
小学校に通っていた頃、「国語力を伸ばしたいなら本を読め」と教えられたが、ただ「本を読む」のではなく、「いちいち文章を『口語体』へ変換して読むように」、というようなことを伝えてくれる人がいれば、本の虫仲間がもっと生まれていたのかもしれない。