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【連載】Bottle Number 8 / 第1章 / セキチクの影 / 1~2

【第1章】セキチクの影

 チチチチチキチキ…ボッ

 午前六時。
 薄闇に沈む寝室の片隅から小さな炎の産声があがり、かすかに鼻を突く油臭い風が、赤ん坊の吐息のように細々と吐き出されていった。

 ボボボボボボ…ボッ、ボォォ…

 最初は囲炉裏の中で燻る火種のように頼り無かった炎も、時折苦しそうな息継ぎを交えながら徐々にその身を膨らませ、凍りついた今日という一日の空気を、じわりじわりと溶かし始めていた。
 前日の予報通り、この冬一番の冷え込みとなった一月二十日の早朝。大寒からの使者は、街全体を巨大な冷凍庫の底へと押し込み、言葉さえも吸い込まれていきそうな静寂を辺り一面に振り撒いていた。

 だが、そんな中。
 この寝室のあるじである真東千代美だけは、既に三十分も前からベッドの上に身を起こしていた。おかげで、目覚めた時には頭から水を浴びたように全身から噴き出していた汗もとうに引き、熱く火照っていたはずの身体からは、急激に体温が奪われ始めていた。指先は自由を失い、耳たぶや鼻の頭には、ほんのりとした赤味さえ浮かんでいる。
 それでも千代美は、ベッドの上から動けずにいた。それは本人の意思とは裏腹に、この日を含めて八日間、毎日繰り返されている光景だった。

――また同じ夢…

 胸元へ手繰り寄せた毛布を掴む左手に、古傷のようないずさが再びよみがえった。

 長いトンネル
 弾ける光
 白い砂浜
 並んだ二人
 繋がれた手
 押し寄せる波
 神への誓い
 黒の統治
 赤の退廃…

 深いため息をついた千代美の目は、出窓の張り出しスペースに並ぶカラーボトルの一本に、自然と吸い寄せられていた。
 薄いレースのカーテン越しに見え隠れする、夜明けを控えた淡い墨色の空。やがてはそこへ、一面の朱色をもたらす生まれたての太陽のような一際強い存在感を誇示している、

『オレンジ/オレンジ』

 このカラーボトルに隠されたキーワード。それは、ショックとトラウマ。
 千代美は両手で顔を覆った。

――私はあの日の事を、未だに引きずり続けているのだろうか…

 当時、小学五年生だった千代美を襲った突然の悲劇。それは、まだ幼かった彼女の心と身体に、決して癒えることのない深い傷と代償をもたらし、その後の生き方を大きく変えてしまった。
 しかし、それから数年後。高校生になった千代美は、逆にその傷と代償から、それを乗り越えるためのすべと生きる目的を見出し、自らの使命に変えて見せたのだ。

 今を生きるということは、過去との共存。
 消えることのない過去にあらがうのではなく、それと共に生きる。
 
 それが、17歳の心が出した答えだった。そこに、迷いや後悔はなかった。
 決意の日から、十余年。千代美にとって「オレンジ色の悪夢」は、既に受け入れたはずの過去だったのだ。

――それなのに…なぜ今になって…

 考えたところで答えが出るはずもないということは、考えるまでもなく明らかであった。なぜなら、今日を含めて八日間、毎日自らに問いかけてきたことなのだから。
 しかし、それが八日間も繰り返されたことで、千代美はあるひとつの可能性を疑うようになっていた。考えられる唯一の可能性。それは、警告だった。前兆、前触れと言ってもいいだろう。
 ただ、そこに明確な理由や根拠は何ひとつ存在していない。人並み外れた鋭い感覚を持ち合わせる千代美の、スピリチュアルな直感がそう告げているに過ぎなかった。

――私の過去に関係した、不吉な「何か」が起きようとしている…?

 今日が完全なオフ日であれば、千代美は「何か」についての明確な答えが出るまで、自らの肉体をそのまま身を切るような寒さに晒し続けていたのかもしれない。だが、幸いなことに今日の千代美は、その自虐的な末路を選択できる権利を持ち合わせていなかった。千代美には、果たさなければいけない使命が待っていたのだ。

 良くも悪くも、千代美は普段から自分の置かれた状況について、深く内省をすることが多かった。それでも、泥沼の底をいつまでも這いずり回るような真似はしなかった。ネガティブな意識で心の内側へ答えを求めても、その意識は多くの場合、いつまでもそこで燻り続けるしかないという事を、千代美はこれまでの経験から誰よりも熟知していたからだ。そのため、心の内の内…潜在的レベルの深い場所にまで潜りはしても、ある一定の深さへ達っした次の瞬間には、一気に浮上をして見せるのだ。
 泥沼の底から這い上がるきっかけになるものは、時と場合によって様々だ。そんな中、今回千代美に救いの手を差し伸べたのは、『オレンジ/オレンジ』と同様に窓辺に並ぶカラーボトルの一本であった。

『ブルー/ターコイズ』

 過去の鎖に再び囚われようとしていた千代美はこのボトルを目にすることで、今の自分がやるべきこと、自らに与えられた使命を思い出したのだ。
 カラーボトルによって掘り起こされた過去。カラーボトルによって呼び戻された今。次に千代美の意識が向かう先は、未来である。

 だがその前に、先ずは芯まで凍えきった身体へ一刻も早く、再び熱い血を巡らせる必要があった。
 ぶ厚い羽根布団の隙間から覗く脚先が、そろそろと外気を探り、ためらいがちに床へと降ろされる。

「…きゃっ!」

 氷のような冷たさが滲むフローリングの感触に、千代美の口から思わず少女じみた悲鳴が漏れた。


 バスルームを出た千代美は、魂ごと丸洗いされたような清々しさに包まれながら、再び寝室へと戻った。
 ピンク色に上気した肌、ほどよく弛緩した手足、羽のように軽い心…
 千代美の身体をガチガチに覆っていた見えない殻は、熱いシャワーを浴びるとみるみる剥がれ落ち、排水溝へと流れ出ていったのだった。

 室内は先程とはうって変わり、下着姿のままでも肌寒さを感じさせない、ちょうど良いあずましさに包まれていた。
 千代美はそのまま歩を進め、壁際に設えられたクローゼットの前に立つと、扉に手をかけゆっくりと手前に引いた。わずかな力でするすると開いた観音扉の先には、秋の野山を彷彿とさせる千代美の“自分色”がずらりと並んでいた。
 中は上下に分かれたシンプルな二段構造。上段にはショート丈のジャケットやセーター、下段にはパンツとスカートが掛けられている。そこへ収まる洋服は、全体的にシックでナチュラルな色合いに統一され、それらが右から左へ向かって赤から橙、橙から黄色、そして緑に紫と、鮮やかなグラデーションを描いていた。
 千代美はそこで目を閉じると、色の帯に左手の指先を滑らせながら、今日一日のコーディネートについて頭をめぐらせた。

 ――渋さを活かしたクラシックなイメージでいくか。それとも、ライトでナチュラルなイメージでいくか…

 色の帯を滑る指先が二往復目に差し掛かったところで、不意にその動きが止まった。
 千代美が引っ張り出したのは、ショート丈のジャケットだった。色はダークブラウンで、襟と袖口がベージュのラインで縁取られている。今日のイメージは、渋さを活かした“クラシック”に決まったようだ。
 千代美は続けて、細かい格子模様が入った深いレンガ色のロングスカートと、オリーブグリーンのインナーに手を伸ばした。さらに、隣のタワーチェストからキャメルのストッキングを取り出すと、それらを手早く身にまとった。

 衣装が決まれば、次はメイクである。
 千代美は身の置き場をドレッサーへと移し、もう一人の自分と向き合った。クラシックな装いに合わせ、使用するリップやチークも普段より色味を抑えたブラウン系に。知的で落ちついた仕上がりをイメージしながら、手を動かし続けた。

 やがて、鏡の中にイメージ通りの自分が完成すると、千代美はそこから壁の時計に向かって視線を移した。時刻は八時二十分とちょっと。約束の時までには、まだ一時間半を残していた。
 だが、千代美はそんな余裕に浸る間もなく、ドレッサー脇に置かれたハンドバッグとコートに手を伸ばすと、足早に寝室を後にしていた。そのまま向かった先は玄関である。

――今日は少しでも早く部屋を暖めておかないと…

 あずましさを通り越し、季節をひとつふたつ先取りしたかのように熱を帯び始めた室内が、窓の外はいつになく厳しい寒さであることを思い出させたのだ。
 千代美はアパートの二階から駐車場に降り立つと、素早く愛車に身体を滑り込ませた。真っ赤なレカロのシートに身を沈め、イグニッションキーを回す。軽く二度、三度、マフラーから咳き込むように息を吐かせると、クラッチを切ってギアを一速に。チタンのシフトノブから伝わる痛いほどの冷たさが、ピリリと千代美の手を焼いた。

(3~4に続く)


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