「北越雪譜」を読む:3
ニューカレドニアに新婚旅行に行くという同僚に、機内で読む本のおすすめを聞かれたので、それはもう絶対に森村桂の「天国にいちばん近い島」でしょうとすすめたのだが、帰って来て感想を聞いたところ、最後に島の人とお別れしないといけない描写が悲しくて新婚旅行に合わなかった、と言われてしまったことがある。
ちなみにもう一冊、読みやすいかなと思って、瀬尾まいこの「幸福な食卓」もおすすめしたが、これも悲しすぎたと不評だった。確かに悲しいけれど、かわいい初恋の話でもあるのに…。
ひとに本をすすめるのは本当にむずかしい。
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現代の人が新潟県と聞いて思い浮かべるイメージといえば、なんだろう。
雪国。
川端康成の「雪国」。
米どころ、コシヒカリ、日本酒。
佐渡の金山などの文化遺産、朱鷺。
ウィンタースポーツの聖地。
特に最近ならフジロックの会場である苗場、大地の芸術祭が行われる妻有。
冬には大雪のニュースが入ってくることもあるが、楽しい話題が多すぎて、今も新潟の人々が雪に苦労させられていることをつい忘れてしまうのは、私だけではないと思う。
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新潟県の歴史の本を読んでいて、ページを開いて早々に、雪の思い出はそのまま苦しみの思い出、と書かれているのに出くわした。新潟で生まれ育った人が書いている文章なので、重々しいリアリティがある。
確かに鈴木牧之も「北越雪譜」の中で、暖かい地方の人が少し雪が積もった様子を風流だと喜んでいる姿を批判しているのだが、私はこの箇所を読むたび、微笑ましく思っていた。お国自慢のように読めるからだ。本気で苦々しく思っているわけではなくて、何にも知らないで呑気だな、とこちらを笑っているのだろうと。
甘すぎる読み方だったかなと反省すると同時に、シンプルに「北越雪譜 」の本文だけを読んで感じる印象と、理解を深めたくて手を伸ばしたいくつかの関連本に描かれる越後国、新潟県の印象に、温度差があると感じるようになった。
どの本にも、「北越雪譜」とその作者鈴木牧之に対するリスペクトが溢れている。敬意ゆえに、書き手は時にとても真面目で神妙になる。
「北越雪譜」を語るときに、雪害の深刻さは避けて通れないものだ。
反対に、雪害の深刻さを語る時に、「北越雪譜」の記述が使われることも多い。
雪にまつわる楽しい思い出、笑える話、切ない恋の話、鮭や小千谷縮などの雪がもたらす恵みの話など、様々なエピソードが「北越雪譜」にはたくさん出てくるのだけれど、そう言った「面白い話」には、本文に当たらないとなかなか出会えないように思える。
「徒然草」と言えば、間抜けな法師の話を覚えている人が多いのではないだろうか。鼎を被って踊り狂って取れなくなった法師とか、お寺参りに行ったのに肝心なものを見ずに帰った法師とか。
誰もが学生時代に、間抜けな法師の話に触れるように、「北越雪譜」との出会いが、雪国の面白い話からでも良いのじゃないか…。
あんまり軽々しい読み物としてすすめたいわけではないけれど、難しいとか悲しいと敬遠されたくもない。日常から少し離れているせいで、最近特に不要と言われがちな古文の、入口としてぴったりの面白い話があるのに、なんだか勿体無いような気がしてしまうのだ。
書いているうちに、「北越雪譜」をすすめたいのか、古文を読もうとすすめたいのか、自分でよくわからなくなって来た。
上手くまとまらないけれど、今回はこの辺で。次回はもう少し具体的に。
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