「北越雪譜」を読む:7
神主でもある民俗学者・神崎宣武は、「「湿気」の日本文化」(日本経済新聞社)の中で、日本の生活文化の特質は、「むし暑さ」への対応がさまざまに発達していることだとして、吉田兼好の言葉を引いている。
家は夏のことを考えて造らないといけない。冬はどこでも住める。暑い時にダメな家に住むのは耐えられない…。
本当にその通り!
京都の冬は底冷えがしてとても寒いけれど、夏の暑さは本当にもう耐え難い。鎌倉時代も同じだったんだと思うと、親近感がわく。
日本の夏の蒸し暑さ、これはもう、今やほとんど全国共通の問題になっている。
江戸後期の人、鈴木牧之も、「徒然草」は当然読んでいただろう。「雪蟄」の項は、この「徒然草」の言葉を念頭に書かれたものかもしれない。
一年のうち八ヶ月も雪のある中で暮らし、雪を見ないのはたったの四ヶ月。
完全に雪の中にこもっているのは半年。
このことを考えて住居を建てるのはもちろん、全て雪を防ぐことを中心にし、お金をかけ、力を尽くさなければいけない…。
雪が降っている中、稲刈りをすることもあって、その忙しさは暖国の百倍大変、しかし、みんな雪国で育った者ばかりなので、暖かい国がどれだけ楽か知らないのだ、とも牧之は書いている。
華やかな江戸に奉公に出ても、何年かすれば十人に七人は帰ってくる。
故郷が一番と考える人が多いのは、いつの時代も同じらしい。
江戸は人が多すぎて無理、ってなったのだろうか、いつかの私みたいに。ちょっとお茶したいだけなのに…って。
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牧之の暮らした塩沢では、家の軒先を長く伸ばして柱で支え、雪が積もっても家々の軒先を繋いで歩けるようにした。これを廊下と言ったが、地域によって名称が違うようで、今の上越市、高田では雁木と呼んでいる。
茅で編んだすだれを、吹雪が入り込まないように、軒先にも窓にも取り付けた。
雪が降らない時は巻き上げて明かりをとったが、雪が積もって屋根くらいの高さになると光が入らず、昼でも夜のように灯火をつけて過ごしたという。
ようやく雪が止んで、雪を掘り小さな明かり取りの窓を開けられた時は、光が差し込んで仏の国に生まれた心地、とも書いている。
この感覚はいまではなかなか味わえないものかもしれない。
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雪が積もっている間は廊下を使って町を行き来するので、町の通りは使わない。ここに屋根から下ろした雪を積み重ねていた。
廊下が途切れるところでは、この雪を掘って次の廊下まで繋いだという。これを胎内潜といった。
通りに積まれた雪は、階段状にしてこれまた通路がわりにしたそうだ。他国からの旅人は、よく滑り落ちて、地元の人に笑われたらしい。
よその人を困らせるために作ったんじゃないよ、雪を遠くに捨てるのはお金も人手もかかって大変だから、せめて階段状にして登れるようにしているんだよ、と牧之さんは言っている。
もっとあれこれ細かく書けば、初雪から雪が消えるまで色んなことがあるけれど、この本では書ききれない、なので省きます、とのことだ。
鈴木牧之が書かなかったことも、色々聞いてみたかったなと思う。