「北越雪譜」を読む:19
越後縮は、越後国全体のものではなく、鈴木牧之の住む魚沼郡に限った名産品だ、という。
着物を着る人がめっきり減った現代では、新潟の特産品といえば越後縮!と真っ先に挙げる人もまた減っているのだろう。
越後縮の中でも、小千谷縮ならば知名度はグッと上がるだろうか。
今は魚沼市、南魚沼市、小千谷市はそれぞれ別の市だが、江戸時代までは魚沼郡として同じ地域に含まれていた。
越後縮は越後上布とも言い、麻の織物である。
上布とは麻織物のことだが、縮は素材ではなく布の成り立ち、もしくは形状を表す。
字の如く、糸を強く撚るなどの方法で布を収縮させて凹凸を出した布を指し、肌にあたる面積が少なくさらりと爽やかなので、夏向きの布地となる。
滋賀県に高島縮と呼ばれる布があるが、これは主に綿素材で、いわゆるクレープ地のこと。夏の肌着に現代でも使われる。
「北越雪譜」の記述によれば、縮と呼ぶようになったのは最近のことで(もちろん当時と比べて)、昔は単に布、と言ったそうだ。
昔の「布」は麻で織る布全体を指していたが、後々技術が向上し、汗を防ぐように糸に撚りをかけて凹凸を出す織り方が生み出され、縐布、縮と言うようになったのではないかと、牧之は考察している。
東鑑を思い起こしてみると、都へ勅使が帰る時、鎌倉将軍からの餞別の事をいうくだりに、越後縮千反とある、という。
建久三年は西暦で1192年なので、この場合の鎌倉殿とは源頼朝だ。現在では鎌倉時代の始まりを1185年とするため、いい国作ろう、という覚え方をしないらしいが、1192年は頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年である。勅使は、天皇からの祝いを伝えに来たのだろうか。
千反、と訳したが、千とはずいぶん多い。
鎌倉将軍から天皇への贈り物ならこれくらいするものなのか、沢山くらいの意味なのか、そもそも端が反なのか、今私が頭に思い描いている反物(直径10センチほどの巻物状のもの)とは一反の長さが違うのか。その辺りの詳しいことが分からないのだが、天皇へ献上されるほど有名な品だったことはよく分かる。
日本列島で綿花が広く栽培され木綿が普及するまで、庶民にとって衣類の生地といえば麻だった。江戸時代には綿製品が普及するようになったが、栽培は比較的温暖な地域が中心だったようだ。
また、保温性があって光沢の美しい絹織物は最高級品、庶民にはなかなか手が出せるものではなかった。
麻が着物になるまでには時間と手間がかかる。「布」の中でも上等とされた「上布」である、丹念に仕上げられた越後縮は、貨幣経済が発達した江戸時代には高級品として広く世に知られるようになった。
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…私が幼かった頃と比べてみると、今は模様を織るなど、錦(華やかな織模様のある絹織物)を織る機織りにも少しも劣らない、どんな難しい模様も織り、縞模様も絣模様もとても上手になって、色々な珍しい技術が出て来た。機織りをする婦人が賢くなったからである。…
小学生の頃、学研の学習という雑誌を購読していた。
6年生のある号の付録は、日本の偉人と言われる人たちの伝記を短い漫画にした本だった。
江戸時代の終わりから近現代に絞った人選で、足尾鉱毒事件で有名な田中正造、北海道で農業としての稲作を成功させた人物(名前を忘れてしまっていたが、おそらく中山久蔵)のほか、久留米絣の創始者・井上伝のこともこの本で知った。
井上伝は18世紀後半、筑後国に生まれた。独自の絣模様を考案し、多くの女性に教え、その技術が広まることで絣の布は久留米藩の特産品となった。現在の久留米絣の礎を築いた女性である。
歴史にほとんど名の残らない女性たちが、日本のあちこちで、機織りの技術を日々工夫し向上させて来たことは間違いない。
井上伝のような人がいかにして生まれたか、
学研の学習の付録を読んだ時には思いが至らなかったことが、「北越雪譜」を読んで、数十年越しにお腹にしっくり収まったように思われる。
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山川出版社「新潟県の歴史」に、江戸時代越後の産物を番付にしたものが紹介されている(1998年、P229)。
西の大関は上田白地縮、東の大関は妻有あひさひ(藍錆)縮。上田も妻有も魚沼地域だ。
そのほか、前頭には上田の糸、西濱の麻布、新飯田の綿、見附の結城(紬)、亀田縞など、繊維製品が多い。
また、燕の釘、三條(三条)の金物など、現代の新潟の産業とのつながりが見える物産、さらに毛抜き、釜の文字もある。
下段に行くほど崩し字が進み、私には判読できないが、あゆ、鯛、紙、炭、醤油などの文字が確認できる。
ちなみに、行司は信濃川鮭、年寄は盆踊、頭取は角兵衛獅子である。鮭は、これから「北越雪譜」でもページを費やして語られる。
それにしても、日本人は何でも番付にするのが好きだなあ。