「北越雪譜」を読む:6
「北越雪譜」の初めのあたりを読み返していた時に、初めて気付いたことがあった。
本文から再び脱線して、道具について少し考えてみる。
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「雪を掃ふ」の項に、次のような文章がある。
雪を掘る道具を、木鋤と言った。軽くて弾力のあるブナの木で作られており、これをストックしていない家はなかったという。
ポイントは、「山中の人これを作りて里に売」る、というところだ。
普通に読めば、山で林業などをしている人が雪に閉ざされる冬の間、身近にある材木を使って道具を作り、里に売りに来たのかな、と想像できる。大まかにはその通りだろうし、そのままスルーして先に読み進んでも、特に問題はないのだが、ここであえて一歩立ち止まることにする。
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江戸時代といえば、士農工商という身分制度があって、農民は一生農民、身分を超えた婚姻はもちろん、仕事をおいそれと変えることも叶わなかった、というのは学校でも習う。
正しくは、士農工商とは身分制度を指すのではなく、職業を指すということだ。
2009年発行の「もういちど読む山川日本史」(山川出版社)では、「いわゆる士農工商…」とあり、武士と農民については比較的細かい記述があるが、工業、商業についてはほとんど何も書かれていない。習ったの覚えてるでしょ、見たまま、字の通りでしょ、と言われている感じがする。
支配階層である武士と、圧倒的多数だった農民については多く習うのに、工業や商業に従事した人々のことは、学校ではあまり教えないのだ。
それでは、この雪掘りの道具である木鋤を売りに来たのは、士農工商の「工」の人だろうか。
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鈴木牧之には、「北越雪譜」のほかにもうひとつ、「秋山紀行」という出版物がある。生前の出版が叶わず、亡くなってからさまざまなバージョンが出版されたようだ。今は平凡社の東洋文庫の一冊となっている。
宮本常一「山に生きる人びと」(河出文庫)の中に「秋山紀行」について触れている部分があり、山中の人と道具の関わりについても書かれている。
秋山は、越後と信州の境にあって、平家の落人の村とも言われていたところだ。
牧之は、秋田から来たマタギ(猟師)に会いに秋山に行ったがすれ違いで会えず、夜になってマタギの1人が宿を訪ねて来て、話を聞くことができた。
歳の頃は30歳くらい、背にクマの皮を着て、クマの毛の胴乱(ポシェットと言ったら可愛らしすぎるか)を前に置いて、大きなキセルから煙を吐き出す姿は、いかにもあっぱれという風情だったそうだ。
マタギたちは、信濃(長野県)の国境に近い秋山の温泉の長屋で冬籠もりをしつつ、草津(群馬県)のあたりまで狩りをして歩くという。
お国は、と牧之が尋ねると、秋田の城下から三里隔てた山里だと答えるなど、受け答えが正確で、理知的な人物だと知れる。
秋山から草津へ行くには、猟師のみが通る道があり、普通の人はなかなか通れない難路だったようだ。
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猟師に限らず、山で生業をするものだけが通る道があった。
山伏や、聖などアウトロー聖職者たちも山の道を通った。
また、人間が生きるのに欠かせない塩を運ぶ道もあった。特に塩が不足する山の中の生活では、塩の道はとても大切なものだった(宮本常一には「塩の道」という書もある)。
さらに、業病といわれ差別されたハンセン病患者が通る山の道もあった。
四国の山の中で、宮本常一はハンセン病患者と行き合い、道を尋ねられている。宮本が歩いていたのは、差別を受けていたハンセン病患者が人に会わずに八十八ケ所を巡礼するための遍路道だった。
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マタギは、山で仕事をする山師の道を辿って山から山を移動しているわけだが、飲み水も欠かせないので、川沿いに移動することも多かったようだ。
魚野川を遡った先の、草津に近い深山のある村では、耕作に向かない土地のため、収入は細工物によっていた。
マタギが通ってきた山師の道は、この村の人たちが細工物を売り歩くために通った道だ。
細工物とは、曲物、下駄、枕、天秤棒などで、これらを草津へ持って行って商いをした。
昔の人は何でも手作りしていたような気がしてしまうが、さまざまな仕事が分業化されていて、作られた道具は売り買いされていた。草鞋だって、もちろん手作りもしたが、草鞋を売る人から買ってもいたのだ。
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「北越雪譜」の、雪掘りに使われた木鋤を作った山中の人というのも、このような、山に住み、山で取れるものを加工して、里や町の人に売って生計を立てていた人たちなのだろうと、想像する。
それは、おそらく、士農工商の工に含まれていた人たちではなく、その外にいて被差別民とされていた人たちだ。
芸能者や皮革職人だけではなく、ものづくりの職人たちも、幕府など国を管理する側からは外れた人たちだった。
特別な技術で、何でもない材木から便利に使える道具を作る姿が、魔術的だったから忌避されたのかもしれない。
素材と出来上がったものしか見たことがなく、工程がわからない。
過程がブラックボックスの中にあるものごとに対して、あれこれ想像を逞しくして無闇に怖がるというのは、今も昔も変わらない。
木をくり抜いて椀などを作る木地師は、自らを高貴なものの子孫だとして神秘性を持たせた。技術を外に漏らさず、商品の価値を高め、また差別される側が誇りを保つために、必要な術だったのだろう。
道具を作る職人を特別視する風潮は、何も日本だけではなく、中世の西洋でも同じだったようだ。
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この辺りの話はとても面白いけれど、とても一言では語れない。私の知識も全く不足している。
私が好んで読む宮本常一や中世史家の網野善彦の文章は、読みやすく分かりやすいが、最新の知見からは既に古くなっているかもしれない。
それでも、古いものに興味を持った時にまず手に取ってみる書物として、色褪せない魅力がある。
センセーショナルな書き振りで人気を博した三角寛のサンカものも、今なら文庫で気軽に読める。眉に唾しながら読む必要があるが、新しく編纂された文庫なら、最新の詳しい解説もついているからその点は安心だ。
最近のもので言えば、直木賞作家・乙川優三郎の「脊梁山脈」(新潮文庫)は、木地師について調べていくことで、戦争の痛手から立ち直っていく青年の物語だ。しみじみとした恋愛小説の要素もあって、読み応えがある。
もし山の民や道具作りに興味を持たれたら、読んでみてはいかがだろうか。