ジョーカー:フォリ・ア・ドゥが面白かったので賞賛する 〜ジョーカーの後始末ではないと思う派の意見〜
はじめに
先日日本でも公開され始めた『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(『ジョーカー』の続編)が、その酷評の嵐に反してとても面白く鑑賞できたので、高評価サイドの感想も残しておきたいと思います。
注意事項
以下、映画本編のネタバレをガッツリ含みます。
書いている人間は、バットマンシリーズのファンというわけではありません。ですので、ジョーカーというキャラクターのレガシーはほとんど理解していません。
前作の『ジョーカー』も公開中に一度見たきりで、その時そこまで作品を高く評価していたわけではありません。記憶が曖昧な点が多々あると思います。
また、今作に関しても一度見て、面白かった!とはしゃいでネットでレビューを見たらかなり低評価が多くて悲しくなり、この作品のどういう点に自分が惹かれたのかを忘れないようにしたいという趣旨で書いています。
正確無比で徹底した考察、というようなものを目指しているわけではないので、その点ご容赦ください。英語も聞き取れないので、字幕から得た情報で楽しんだ結果です。
でも、面白い映画と言っても全員が全員、複数回見て細かく考察するってもんでもないと思いますし、提示されたメッセージを完璧には汲み取れなくたって、概ね自分で方向を見つけて、満足できればそれで十分だと思っています。
鑑賞中に考えていたこと
序盤:ミュージカル映画じゃねえか
もう、こればっかりは、観終わった後は「面白えぇ!!」となった自分も、かなり辛かったです。まず、暗い。劣悪な環境の精神病院の映像が延々と続くし、アーサーが急に歌い出したかと思ったら、妄想かい!みたいなのが度々ありました。どれくらい過剰に歌唱するかというと、劇団四季のライオンキングより多いくらいです。絶望します。
さらに言うと、所詮アーサーの考えつく程度でしかないので、そんなに観ていて面白いミュージカルでもないのです。これがまたしんどい。ただ、途中からレディーガガが加わり、この人歌上手いなぁと素直に関心できるので少しだけストレスが軽減します。
でも、終わった後に考えてみると、このうんざりするほどの低質なミュージカルパートが無かったら自分がこの映画を面白いと感じることは無かったでしょうから、なんとも言えないところです。詳細は後ほど。
中盤:話が進まねえ
本当に、全然、何か進展してる?これ。みたいな感じです。
何年前かの記憶ですが、前作はもっとテンポ良く不幸な出来事のドミノ倒しがあって、あわあわしてる間にキャパオーバーで対処不能になって、そらそうなるよ、って感じのエンディングを迎えていたので、かなりテイストが変わってんなという印象です。
序盤から捻じ込みミュージカルのペースも保たれたままで、かなりしんどいです。何回山作るんだよこいつらと思いましたが、暴れながらピアノを弾くレディーガガで笑顔になることで耐えました。
結局山作るってなんなんだよ(考察放棄)。僕は物語の構造を分析したりする能力を持ち合わせていません。他の詳細なレビューを参照してください。
ただ中盤で、この作品もしかして面白くなるんじゃないかと感じたシーンがありました。そこから急にギアが入り出しました。
それは、ハーレイクインが計2回、アーサーをジョーカーに切り替えさせるシーンです。一度目は、火事に乗じて脱走を企てた罰で懲罰房に入れられたアーサーに会いに来たシーン、二度目は、面会のガラス越しのシーンです。(予告編にも入っていた)
あくまで自分の印象ですが、2回とも、ハーレイクインにとって都合の悪いことを誤魔化すためにジョーカーへの切り替えが利用されていたように感じました。
一度目は、彼女が看守を「抱き込んだ」直後にアーサーの欲望をぶつけられた時
二度目は、彼女が経歴で嘘をつき、アーサーを馬鹿にしているのではないかと問い詰められたタイミングでした。
終盤:怒涛のフリオチ回収がやってくる
終盤は本当に良かったです。誰一人アーサーのことなど気にかけていないんですね。ハーレイももちろんそうだし、アーサーの味方をしてるはずの弁護士ですら、ジョーカーが実在することを証明したいだけで、アーサーが何を感じているかにはまるで興味がない。
そして可哀想なアーサーときたら、少しでも自分の味方をしてくれるなら弁護士にもキスをしてしまう。結局子供の時から続く酷い境遇が、彼を成長させないまま大人にしてしまったというのが、前作よりはるかに明快に提示されていました。
で、みんながジョーカーしか見てくれないから、ジョーカーをやるんです。アーサーは。この辺はもはや普通に哀しい。なんか救いはねえのかよと。
そう思ってたら救いがありました。びっくりしました。
その救いとは、背が低くて皆んなから小馬鹿にされていた元同僚です。
僕の集中力が足りていなかったので無ければ、おそらくアーサーに向かって話しかけてくれたのは、作中で唯一彼だけです。彼だけが、あんなに長い映画の中でたった一人、ジョーカーではなく、「アーサー」自身の善性を指摘してくれたのです。
思い返してみると、他はびっくりするくらいみんなジョーカーの話しかしてません。下手したらアーサーが解離性同一症(多重人格症)ではなく、責任能力ありとしようとしてる検察官が二番目に来るくらい、みんなアーサーがアーサーであることには徹底して興味なし。切ない。
アーサーはジョーカーほどは、バカではない
アーサーは判決の直前になって急に、自分はジョーカーじゃない、これ以上は無理だと弱音を吐きます。
アーサーがこんなに本音で喋ってるように見えたのは今までにないことでした。
初めて、自分をアーサーとして見てくれた人が一人居たことが決定打になったのではないでしょうか。
完全に個人的な感想ですが、確かにアーサーは障害を抱えているかもしれないし、資本主義的な観点で能力だけを査定すれば、他人より劣る、哀れで弱い存在なのかもしれません。それは彼の子供時代の悲惨な境遇も大いに影響しているかもしれません。
それでも彼は、邪悪で愚かな怪物ではありません。世界がそれを許せば、彼はごく普通の枠の内側にいて、それなりの優しさを持って慎ましく生きていくことだって、不可能では無かったはずなのです。
ただ、世界はそんなこと許しません。
みんなが見たいのはジョーカーだからです。
ジョーカーは、はっきり言ってアーサーよりはるかにバカで怪物です。だからこそきっと、ハーレイクインは自分の都合が悪くなったとき、意識的にアーサーをジョーカーに切り替えさせたのではないかと僕は思います。
アーサーは、どうしようもないバカではありません。愛する女性が他の男とセックスした直後だったら気がつき得るし、その女性が自分自身を見ていないことにも気がつき得る。ハーレイクインはそう危惧していたのではないでしょうか。
でもアーサーも、その切り替えで自分がバカにさせられていることに気づけない程度には十分愚かなんですね。
結局、アーサーの心の叫びはジョーカー信者を失望させ、またも彼を独りぼっちにしました。最後の女々しい留守電の歌がグッと来ます。まだ他人に期待しているのかと。餌をくれた人に誰から構わずついて行ってしまう雛みたいです。
そこからの爆破シーンと、たくさん出てくるジョーカーもアーサー本人の心象風景をすごく上手にメタフォリカルに表現していたと思います。
そんで例の階段
痺れましたね。前作でジョーカーはあの階段を華麗に踊りながら下りましたが、アーサーはよろめきながらも階段を登るんです。
登りたいんです。アーサーだって本当は。
そしてもう歌は嫌だと、話したいんだと懇願するアーサーを、ハーレイクインはさらりと切り捨てて去っていきます。
あの最悪ミュージカルを我慢し続けたのが一番良い形で報われたと思いました。
あんなに歌っていたのに。本当はアーサーは話したかったんだ。そしてそのごくささやかな願いはきっちり踏みにじられたとさ。
こんなに綺麗なフリオチがあるでしょうか。二時間我慢した甲斐があったというものです。
子供が欲しかったんだというあの歌も切実で、最近よく聞くようになったある言葉を、あまり良い言葉ではないと分かっていながらも思い浮かべずにはいられませんでした。
ここまで徹底してるなら、どうせハーレイクインの子供はアーサーではなく看守の子でしょう。それか妊娠なんて嘘っぱちか。アーサーは終始コケにされ続けていますからね。
ラストシーン
でも最後のシーンで、アーサーは実質的に自分の後継者を産み出しました。
お腹を痛めて産んだのです。これはもう我が子。自分の命まで引き換えにして。最後の最後まで良い落とし方してくれます。アーサーがジョーカーだとしたらバットマンと年齢差ありすぎ問題みたいな、前作のツッコミポイントも解消されてますし。
刺したあいつはなんなんでしょうね。でも前作のジョーカーがめちゃくちゃ好きだった人が、今作を観たら、きっとあんな風に詰め寄って刺したくなるんだろうなとは思います。だって彼らはアーサーが人並みに悩んでる姿なんて興味が無くて、ジョーカーの続きが観たいだけだからです。この構図が映画のテーマにガッチリハマってるのが最高だなと思いました。
補足
ちなみに僕が初日に今作を観たのは、公開を心待ちにしている友人がいて、一緒に観に行くことになったからです。
当然ですが、その友人は前作『ジョーカー』を大変気に入っていました。そして、今作を観終わったあと、非常につまらないものを見せられたと大変怒っていました。
終盤にかけて上記のようなことを考えていたところに上乗せで、現実の「ジョーカーが見たかっただけの人」がちょうど隣に居たことが今回の僕の映画体験を大幅に引き上げてくれたのは間違いありません。
まとめ
ジョーカー観たい人にとってはつまらないと思う。きっと。
それを、「アーサーって人間はジョーカー観たい人にとってはつまらないよね」っていう映画を作ることで二重に解き明かしているんだなぁと勝手に解釈して僕は大満足です。
いやきっと、そういう人たちも言いたいことはすごくたくさんあると思う。ジョーカーに、一本の映画の範疇を越えた何かを見出した人がいるんでしょう。多分。社会的な問題があるのも分かる。前作の影響で許せない事件が日本でも起きているから。だからといって、社会責任とか後始末のために、つまらない言い訳の勧善懲悪ストーリーを作った、という見方が絶対ではないと思う。
この映画は、ちゃんと本気で作られた続編だと感じた。人間に潜むある一面を、アーサーという設定を通してちゃんと描き出しています。
あと、単純にありがたかったのが、前作ほど妄想と現実が曖昧に濁されていなくて、かなり区別しやすかったこと。冒頭のアニメもかなりヒントくれるので、影になったら気をつけて観ようっと、とか心構えができる。
そういう意味ではなるべく多くの人が、映画から何かを感じ取れるように配慮されてると思えました。親切設計。色々意味深にしてよく分からないけど名作っぽいですよね、みたいな顔をしようとしてない。ずるい映画にするつもりはあんまり無いんじゃないかなと思った。
正直なところ、前作は曖昧なところが多いし、「全部妄想です」とか言いだす考察記事もたくさんあるし、ちょっとずるいよなぁと感じた記憶がある。
でも、今作をいったん額面通りに受け取るならば、アーサーの殺人は実際の事件だと確定したり、恋人の妄想も確定したし、虐待されていたこともはっきり説明あるしで結構わかりやすくなっていたし。
その辺も前作とは違う試みをきっちりやって、しっかりある程度の成果を出しているように見えたのでよかったです。
面白いと思う人も中にはいて、こんなことを思って見てましたよという記録でした。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
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