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無常ということ

             「変化する」ことを無常という

むかし「お肌の曲がり角は24歳だ」といわれました。
いまは、ものすごく化粧が上手になっていますから、スッピンをみないとわかりませんね。(笑い)

絶世の美女といわれる小野小町が「花の色は移りにけりな・・・」と嘆いたのは、16~18歳のころだといわれます。
が、70歳過ぎてもスベスベ肌の時代が来ましたね。
私は、「化粧より栄養」だと思います。栄養バランスの影響が大きいと思っています。しっかり食べて、寝る。生活者の原則でもあります。

「永遠に美しくありたい」というのが人情です。
三島由紀夫の作品の中に『卒塔婆小町』という戯曲があります。
深草少将と、永遠の美女・小野小町の恋物語を
新しい視点と解釈で「新しい作品」にしたものです。
      
能舞台で上演されますが、
私は、高校2年生の時に「何も知らずに」主演・演出をしました。
謡曲に詳しい生物担当の先生に呼ばれて質問され「ビックリ」した記憶があります。

          琵琶法師の響き

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし・・・』
平家物語』の冒頭です。

私が幼いころ、近所のお爺さんが、琵琶を奏でながら「謡曲」を詠っていた記憶があります。琵琶は独特の音色と響きです。
いにしえ、盲目の琵琶法師は「時間」の虚しさを、朗々と謡い継いだことだろうと思います。
      
仏教を背景にした「無常観」を伝えるには、低音でサビが効いた琵琶の音色がよく似合います。小泉八雲の『怪談』で、<耳なし芳一>が弾いたのも琵琶ですね

          ゆく川の流れは・・・

私は、海が好きだから、先日、遠州灘「御前崎灯台」に行きました。
大きな波・小さな波が、限りなく続く風景は、いつも変わりません・・・。
懐かしかったです。

灯台の右手に続く白浜・海岸線の波を利用して、
むかし、ボード・セーリングの世界大会の開催に協力したことがあります。丁度「スラローム」という煙草の売り出しを絡めて、地元の新聞社が誘致してきたイベントでした。
有名な歌手の杏里さんが出演することもあって、華やかな前夜祭をやりました。楽しかったです。

時はながれました
イベントを開催したホテルは閉鎖されて、観光客もまばらでした。
波頭の白さは変わらないけれど、同じ波は二度と寄せてこない・・・。
昔日の喧騒が、再び戻ってくることはないでしょう。

       まさに、鴨長明「方丈記」です。

「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。」

御前崎の白波も永遠に繰り返し、それを見る人だけが、交代していくのです。私も、その中の一人にすぎません。
 
<チョット寄り道>
「三密」と「3密」は違います。政府は、コロナ対策で「3密」を避けるようにアピールしていましたが
この3密とは「密接」「密閉」「密集」です。感染を防ぐための方策です。

しかし、「三密」というのは、
弘法大師が中国から学習してきた「密教」の言葉です。
「身密(しんみつ)」・「口密(くみつ)」・「意密(いみつ)」です。
仏と一体になる修行を意味しています。行動や身体を整え、言葉や発言を正しくしていけば、おのずから心や考えが整うという意味です。
「3」と「三」で、これだけ異なります。

       諸行無常ということ

いま、能登半島地震で大変なことになっています。
自然の前で、人間の無力を痛感します。
だからといって「いき」がって、無常だなんて言っていられない状況です
「海洋研究開発機構」の研究が、「うつろ」に感じ、悔しいです。

「諸行」とは、すべて形あるものという意味です。
「無常」とは、変化するという意味です。
だから、すべて形あるものは変化する。これを体得するのが仏教です。
しかし、簡単に悟ることができないので、修行をするのです。

        「無常観」とは・・・

小林秀雄の「無常ということ」という作品は、彼が39・40歳の時に書かれた評論文です。1942年に発表されていますが、私には「わかい」と見えます。

この天下の秀才の「無常観」と、現代の[若者たちの感性」を並べたらどうでしょうか?

無常観を「負の原理」として受け止めてはいけないと考えています。
一神教の中の「虚無」は、神に対する、人間の虚しさをさしています。
だから、存在そのものに対する「無常」は同じではないと思います。
日本人が持つ「虚しさ」は、生きる力の源泉に繋がるものです。

日本人の美意識は「いき」にありますが、徹底した「虚しさの向こう側
に生まれた美が「いき」だと思います。

九鬼周造の「いきの構造」も、
無常観を生き方のひとつとして捉え
媚態・意気地・諦めの向こうにある「生きる哲学」として受け止めると良いと思っています。

  「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。「いき」とは畢竟ひっきょうわが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験が論理的である

少々、専門的になってしまいますが・・・
虚しさの向こう側に「生がある」というのが、日本人の無常観だと考えるといいと思います。「いき」は「生きる」に繋がるのです。

 


 

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