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パラダイス:神(2012🇦🇹)
原題: PARADIES Glaube(2012、オーストリア、113分)
⚫︎監督:ウルリヒ・ザイドル
⚫︎出演:マリア・ホーフスタッター、ナビル・サレー
この映画を観て率直に思ったこととしては、宗教や信仰は当然自分にとってプラスとか良いものをもたらしてくれるから信じるものであるはずなのに、主人公のマリアが献身的に行う祈りや宗教活動によって彼女が何か良い方向に行っているとはまったく思えない、ということである。
「神の不在」のようなそんな哲学的な命題とかでもなんでもなく、ほんとうに何もない空間に向かって祈っているようなそんな虚しい姿に見える。
とにかく自分の作ったルールに一人で縛られて、自分の掘った墓穴の中で自分の首を絞めているような、一人で何やってるの?という感じになる。
一人で、もしくは仲間たちと集会を開いている分はまだいいが家庭を訪問して布教活動をする様子は、押しつけがましい独善や押し売りに見える。
もっと言ってしまえば、彼女のしていること全てが比喩的な意味でも自慰行為に見える。
自慰の強要だからたちが悪い。
それでいてよりを戻そうと帰ってきた昔の夫(イスラム教徒)に対しては指一本触れさせるもんかという態度で厳しい。
一組の男女間の関係に宗教論を持ちだすのも野暮なのかもしれないが、異教徒であり最も近い隣人もである夫とのセックスに対しては拒絶を示す。
オナニーの強要とレイプではどっちが悪いのか?笑っていいのか顔をしかめていいのかよくわからない。
カメラはひたすら例のごとくまるで温かく突き放すような、冷たく見守るような一定の距離を保っているため彼女の心情に寄り添うことはなく喜劇にも悲劇にも取れる記録映像のような作りになっている。
「神は人間が作ったもの」という考え方を持った人でないと作れない映画であるということは間違いなく言える。
ちなみにマリアの職業はレントゲン技師。
劇中では冒頭でちょっと描かれる程度なので別に教師でも販売員でもなんでもいいのに、あえてレントゲン技師に設定されているのには何か訳があるのだろう。
レントゲン検査は体の中の見えないものを見えるようにし、病気やケガの治療に役立たせる医療行為。正真正銘の物理科学の研究の産物だ。
すべての工程がルーティン化され洗練され、最終的に何かしらの「解答」もしくは「解釈」にたどり着く。
いくら自分の体の中を自分のその目で見てないからと言ってレントゲン写真を「嘘だ!」なんて言う人は誰もいない。
お医者さんが言うから「ああそうなんだ。自分の足の骨は今こうなってるんだ」といって当然のように信じる。疑う余地など一つもない。むしろ「先生、ちなみにこれは本当に私の骨ですか?」などと言ったら頭の中身まで疑われることになる。
彼女にとっての信仰心は、自ら選んだ仕事であるレントゲンの技術と同義のものという比較として設定されているのではないだろうか?
マリアの信じるもの=キリスト教(神)・・・①
マリアの信じるもの=レントゲン(科学)・・・②
よって①=②という図式となり、仮に観る側がキリスト教を全く信じていなくても思わず説得力をもたらされることとなり、登場人物の心情や背景を測るうえでの解釈の余地という"計算用紙"のスペースの想定以上の広さに気づき、余計な想像力を使わされる。
主人公を「宗教にはまったおかしなおばさん」という一面的な観方ができないように設計されている。
この辺りが本当に上手いなと思った。