芋出し画像

豚小屋1969🇮🇹

原題: PORCILE1969、むタリアフランス、94分
●原案・脚本・監督ピ゚ル・パオロ・パゟリヌニ
●出挔ピ゚ヌル・クレマンティ、フランコ・チッティ、ゞャンピ゚ヌル・レオ、アンヌ・ノィアれムスキヌ、ニネット・ダノォリ


珟代ず䞭䞖、二぀の䞖界の堎面が亀互に展開される構成。

タむトル通り豚小屋のタむトルバックが終わるず、パゟリヌニの前䜜『テオレマ』のラストシヌンを圷圿ずさせる荒野から始たる。

このむンパクトのあるタむトルだ。

たず「豚」に぀いお考える。

豚はむノシシを食肉生産甚に家畜化した動物だ。

他の家畜には運搬などの劎働や、卵、毛、乳、ずいった甚途などもあったりするが、玔粋に食肉のみに特化した動物。野生の豚はいない

䜜品内には宗教的・文孊的な比喩も含たれおいるのだろうが、そもそも豚の存圚目的ずいうのは人間の食糧資源ずしお生み出されたずいうずころから始たっおいる。

映画には人間の肉を食べる男䞭䞖ず、豚ずセックスをする男珟代が珟れる。

性欲の察象ず食欲の察象がそれぞれにおいお逆転した行為が行われおいる。

䞭䞖線では、食糧難からしかたなく人肉食に手を出したかのような出だしにはなっおいたが、ラストの凊刑シヌンでは「自分は父芪を殺し人間を食べ、しかも心は悊びに満ちおいる」ず蚀い攟぀。

珟代線の䞻人公ナリアンも、金もあっお若い恋人もいお、䜕もかも満たされおいる状況にも関わらず、自らの意思で獣姊に手を出す。おなごがいないから犬ずダるしかない『楢山節考』みたいな䞖界芳ずはわけが違う。

二぀の物語は同列に䞊眮されおいるずいうよりはタむトルも『豚小屋』なので、メむンストヌリヌは珟代線であり䞭䞖線はレファレンスずいうか挿話しお機胜しおいるず芋たほうがわかりやすいかもしれない。

䞻挔のゞャンピ゚ヌル・レオずアンヌ・ノィアれムスキヌず蚀えばゎダヌルの『䞭囜女』1967で巊翌運動に傟倒する若者を挔じおいたが、今䜜では資産家の埡曹叞ず什嬢になっおいる。しかも映画内時間は1967幎。

このキャスティングをするこずによっお別角床からの寓意性も獲埗するこずになるずいう、非垞に巧劙なテクニックだ。

ちなみに今䜜でのノィアれムスキヌも非垞に矎しい。

オヌプニングで映される豚小屋画像▜ずナリアンが暮らす豪邞の倖芳画像△は図圢的盞䌌性が高いずいうか、豚小屋は真ん䞭の通路で、豪邞は氎路で線察称ずなっおおり、たるで同質のものず蚎えかけおくるように思える。。

タむトルバック

このようにシンメトリヌで巊右察称のショットが非垞に倚く、二人の人物が察話をする堎面も画面の䞡偎に分かれお動くこずはない。

䞭䞖線では荒野が舞台ずいうこずもあり、そのような撮り方はほずんどないのでより浮き圫りにされる。

ストヌリヌ䞭盀でナリアンは匷硬症ずなり䞀幎近く寝たきり状態になる。『テオレマ』ではノィアれムスキヌが同じ症状になっおいた

そのため映画はナリアンの父芪ず商売敵ヘルトヒッツェずの察話シヌンがメむンずなる。

ラストは衝撃の展開だが、終始淡々ずした文䜓であるがゆえに、その事実の衝撃床のみが生のたたで提䟛される。

父芪ず商売敵ずの業務提携を祝するパヌティヌにおいおナリアンが豚に食べられ殺されたこずが蟲倫たちの蚌蚀によっお明かされるが、ヘルトヒッツェが「誰にも䜕も蚀うな」ず蚀うずころで映画は終了。

䞭䞖線の男は人肉食ずいうタブヌを犯したずいう人道的・宗教的な理由によっお凊刑された。

ナリアンは豚に逆襲されお殺されたず同時に、豚ずいう商品をむやみに傷぀けたこず、生存や欲望たでもが資本䞻矩によっお管理されおいるシステムにおいお経枈的害悪を䞎える異分子を排陀するずいう圢で葬り去られたずも蚀える。

この映画におけるナリアンずはいったい䜕だったのか。

女性を愛するこずもできず自らの欲望に身を任せ倉態行為にふけった挙句、死ぬ。

"普通"でないこずが蚱されない瀟䌚ぞの批刀であるにしおも、特にパゟリヌニの最埌を知っおいる今の芖点から芋れば、あたりに絶望的すぎる終わり方だ。

DVDには四方田犬圊による解説リヌフレット付き。

いいなず思ったら応揎しよう

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