2日目 昼寝と無駄と「シュカンテキ」
昨日に引き続き鼻風邪が治りません。
本当はこんなことせずに寝てしまいたいのですが、毎日書くと決めてしまったので今何とかパソコンと向かいあっています。
今日四時間くらい昼寝をしてしまいました。気持ちがいいことはそうなんですが、何といっても時間を無駄にした感が半端ない。
僕は変なところに神経質な人間なのでそうやって大きく時間を無駄にすると、自分は本当に時間というものを有効に活用できているか疑問に感じてしまいます。
でもだからと言って、学校に行っていつ使うかわかんないことを四時間教わることよりも、いっそのこと四時間昼寝してスッキリしてしまった方がいいんじゃないかと思ったり。
無駄というのはひどく主観的ですよね。その物事の価値をどう判断するかによってそれが無駄なのか否か、自分の中で変わっていってしまう。
特に現代の私たちは無駄に不寛容です。僕もそうですが、どうにか時間をうまく使おう、時間いっぱい何かをしようとあくせくしがちです。
現代の人の中で忙しくない人っているんでしょうか。多分それはほとんどいないだろうと思います。みんな忙しい、忙しいとばっかり。
中学の先生が僕に言ったことがあるんですね、忙しいという漢字は心を忘れると書くんだよと。
私たちはみんな心を忘れてしまっているんでしょうか。このモノに溢れた社会で外物に心をとらわれないことは可能なのでしょうか。
話が飛び飛びですみません。無用の用ーー僕は荘子の中のそんな言葉を思い出しました。荘周がこの世の物事の価値を主観的に決めてしまうのは愚かだと僕を叱る風景が思い浮かびます。
多分大事なことは、寛容的であることなのだろうと思います。起こってしまったことは仕方ない。起こったならそこには何らかの意味があるはずだ、という態度。
そして自分のなかにある「譲れない何か」を円くて中くらいの「こころ」のなかに常に収めておくこと。
でもやはり僕の人生におけるそれぞれの物事の価値を考えるとなると、どうしても僕は神様を想像してしまうんですね。都合の良い神様。彼が僕の人生に必要な要素を日常の細かなところに詰めていっているという考えです。
でもやっぱり四時間の昼寝は、止まらない僕の鼻水は、「無駄」なのかもしれない。そう思う自分もいます。
しかしそう思う自分にも寛容的であるべきなのかもしれない、、。結局のところ僕がどこまで自分自身の行動を許容し評価するかによって僕の人生の満足度みたいなものはひどく可変的であり続けるのだから。
そう思うと、幸せって僕たちのこころのなかにあるのだろうと思います。
物事の捉え方、価値観というものについて考える火曜日の夜中でした。
おやすみなさい。