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なぜ人間(私)は考えるのか

ここでいう考えるとは、意識レベルでの思考をいう。人間が考える根源的原因の一つとして、生存本能が挙げられる。我々は日常の中で、さまざまな不安を感じながら生きている(あまり不安を抱えない人もいるのかもしれないが)。不安とは、ある出来事がはっきりと予測できない際に発生する、一種の動揺だと考えられる。また、ただ予測できないだけではなく、その出来事が自分にとって損失となる出来事になってしまう可能性がある際にも発生すると考えられる。そうした自分にとって"損"となる事態に直面する可能性が高い時や、次の時点の事態の予測があまりつかない時とはすなわち、生存が脅かされる時であると考える。森の中から猛獣の声が聞こえるのだが、どこにいるか明確に予測がつかない時のように。もちろん現代社会ではそういう直接的な死の危機は起こらなく、生存が脅かされる=社会的な立場、自己の存在などが脅かされる、言い換えれば社会的な死、自己の崩壊に例えて考える。これについては議論の余地があると思うが、現代における生存危機をそのようなものとして考える。だから人間は少しでも不安を解消することで生存の可能性を高めようと努力する。不安を少しでも解消しようとする、すなわち起こりうる問題に対して様々な可能性を想定し、どの事態が起こりやすいか推論する。これこそが考えるということの本質の一つであり、進化の過程で人間が身につけた重要な能力の一つであると考えられる。人間がなぜ考えるのか、という問いへの一つの答えとして、"不安という生を脅かす存在に対して抵抗するため"と言うことができるだろう。

以下、上記で言う思考を(言語的推論を用いた)"高次の思考"とする。(古代においては言語の発達がまだ十分でなかったと思われるので、これはより現代の人が行う、整理された言語を用いた思考とする。)

私は最近、喉が渇いた時に水を飲みたくなるように、暇があるとついSNSを見たくなってしまう。なぜそうなるなか。一つの回答として、考えてしまうのが嫌でSNSなどを見て紛らわしてしまうのではないか、というものが挙げられる。SNSを見ているときに脳内がどうなっているのかを振り返ってみる。外部からの情報を脳内にイメージとして作り出す。それだけに留まらず、自分の論理の型に当てはめて理解するという作業を行うことも多いが、基本的に熟考せずただ情報を取り入れているだけという場合が多い。このような脳内の活動を"低次の思考"と呼ぶことにする。すなわちSNSを見ている時は基本的に情報をインプットしているだけで、能動的な高次の思考は停止している。高次の思考が停止するという、私にとって楽な状態に移行するのだ。なぜかというと、これは人によるかもしれないが、何もせずただ目を閉じている時、私は高次の思考を無意識的に行ってしまう。ただボーッとすることが苦手なのかもしれないし、人一倍臆病で心配性な性格も関係していると思う。そこで、SNSなどを見ることは高次の思考をサボり、低次的な思考のみを行って時間を過ごすことを可能にする。個人的に、高次の思考を行うにはタフな精神が必要だと思う。あらゆる負の側面にも目を向けなければいけない。ある出来事の想定として、自分にとって損となる可能生を考えることは私の不安を増大させ、ネガティヴな感情を引き起こす。だから私は高次の思考それ事態はあまり好きではないような気がする。とにかくエネルギーを消費し、疲労するからだ。だが、生存本能が働いてしまい、つい高次の思考が自発的に起こってしまう。だからSNSを見て過ごすことで低次の思考に切り替え、エネルギーを節約するという過程を無意識的に行なってしまう。

でも逆に、適切な道筋で考えれば、不安そのものや、その原因を言語化して可視化することで予測の精度、解像度を高め、不安が持つ無秩序さをある程度消すことに成功すると考えられる。根気強く思考することは遠い目で見れば自分にとっては益となりうる。逆に、中途半端な思考は損となりうる。根気強く考えることで、負の可能性を拡散させるだけに終わってしまうのではなく、その不安という存在を生にとってより非脅威的なものに仕上げる。したがって、今の私に必要なのはそういった根気強さなのかもしれはい。高次な思考に伴う疲労という負の側面と、根気強い高次な思考をすることによる不安の改善という正の側面を天秤にかけた時、後者の方が自分の人生全体にとって益となりうると思うからだ。

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